想界にIFを考えるのはどこまで許されるか

初めに断っておくが、これは「『もし想界が○○だったら』を考えることがどこまで許されるか」という話ではない。

現想対称性の根本

これまでに何度も述べてきたことだが、想像地図には「現想対称性」という設定がある。これは、「想界内に『現実の日本を想像地図として描く地図作者』が存在する。ゆえに、想界内の想像地図作者は、現界を設定として正しく思いつくことができているという前提が満たされている必要があるので、彼または彼女が日本や地球を正しく思いつける・描けるような世界でなければならない。」という趣旨である。

現想対称性の本筋は「想界は、彼または彼女が日本を正しく思いつける世界でなければならない」という部分である。

「想界内に『現実の日本を想像地図として描く地図作者』が存在する」だけでは「だから何?」で終わってしまう。「だから、~~でなければならない」という部分が、何百倍も重要なのである。

「現想対称性」≠「現実に馬鹿正直」

現想対称性は、「何でも現実に馬鹿正直に」という趣旨ではない。想界が「彼または彼女が日本を正しく思いつけるような世界」であれば、別に現実と違う設定を導入しても、ま~~ったく問題はないのである。

「思いつくことができるならばOK」。

だが、「思いつくことができるならばOK」はその通りなのだが、「思いつくことができるか?」はきちんと考えないといけない。そして、「思いつくことは不可能ではないけど普通はやらない」という結論になるなら、そのような設定を導入することの妥当性には疑問符がつく。

※なお、これが問題とするのは「現実と違う設定を意図的に導入する場合」の話である。地形が日本と異なることによる必然性から演繹した結果が日本と異なるという結果になる場合については、ここまで厳しく取り締まることはない。例えば、城栄の都道府県の数が73個と、日本よりも多くなっているのは、地形の違いから演繹した結果として出てきたものである。

そして、忘れてはならないのは、「思いつくことができればOK」というのは、現想対称性に対してだけである。思いつくことができるならば、現想対称性には反していない。しかし、想像地図には現想対称性の他に、「田谷野解釈」と「住岡解釈」がある。

例えば想界を「魔法がある世界」とすることは住岡解釈に反するし、作者が「個人的な好き好みを反映すること」は田谷野解釈への違反となる。

解釈にズレが生じている?

想像地図の創作は、かつては想像地図の人が1人で行っていたが、現在は複数人による共同製作となっている。もっとも、城栄国の地図を描くという部分は想像地図の人が1人で行っているが、架空言語や城栄の周辺国の設定については他のメンバーと分担して行っている。

ここで難しさを感じているのは、現想対称性・田谷野解釈・住岡解釈の解釈方法について、メンバー間で微妙な差違が生じていることである。「地図と言語」であれば影響が独立的であるため、これらの差違が問題となることは少ないが、「城栄とその周辺国」となると解釈の微妙な違いが相互に影響してしまうケースがあり、かなり微妙な問題となってくるのだ。

ことさら、

・北海道に当たる地域に、先住民族による国家が存在したか

・朝鮮半島に相当する地域は分断国家となっているか、それとも統一しているか

という問題は、現想対称性・田谷野解釈の解釈方法の差が微妙であり、なかなか難しい。

想像地図の人は、想界も朝鮮半島に相当する地域は分断国家となっていなければ、想界内作者が現実の朝鮮半島を正しく思いつけないだろう考えている。しかし、想界の朝鮮半島に相当する地域が統一されていても、想界内作者が現実の朝鮮半島を正しく思いつけるだろうという見解の担当者もおり、なかなか難しい。

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