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美味しいものを知るということの大切さ

私が焼肉の会社で働いていたころ、肉の卸し業者さんが、なかなか興味深いことを教えてくれた。
「知ってますか?焼肉のたれってそもそもまずい肉をどうにか美味しく食べるために開発されたんですよ」
衝撃的だった。確かに美味しい肉ほど、塩コショウのみで油の甘味を引き立て赤身のうまみだけでも満足できすぎるというものだ。
ということで本日は私の食の拘りについてよしなしごとを少し書き綴っていきたいと思う。

先日仕事の同僚と焼肉に行き、塩タンを4人前頼んだ時のことだ。
大皿に綺麗に4列に盛られた牛タンが来たのだが、どう見ても右の2列はタンサキの赤身がかったタンで、左の2列は刺しの入ったタンナカくらいのものが届いた。届いた時点でこのグレードの違いは何だろう?と思はしたが、私は当日ゲストサイドであったこともあり静観をしていると、皆さん置いてある肉をそのまま近い方が焼く展開となった。
さすがにひどいと思い「この肉、味違いますから皿回しましょうか?」というと、「え?なにが違うの?」とのこと。
その後は焼く途中で何度もひっくり返されて肉汁も水分も飛ばした肉を黙って食べ続けたが、いいお肉はどう焼いてもそれなりの美味しさは担保してくれるので、それはそれで一つのコンテンツとして素晴らしいと思う。

しかしながら、肉だろうが魚だろうが返しは1回、7ー3での焼き、肉であればミディアムレアで食べるのが私は好きだ。
いい肉であるならば勿論塩コショウをしっかり打って、たれなどつけず、強火で一気に仕上げ、赤ワインを流し酒でいただき、口の中に残る香りのマリアージュにひと時の幸福を感じたいものである。
魚であれば含み酒がよろしい。魚のうまみが白ワインの甘味と重なって旨味の4重奏となって鼻に抜けていく感覚は至福と呼ぶに相応しい瞬間であろう。

食に拘りを持つようになると、食べ方などはどなたでも気になることだろう。勿論、人との会食で奉行になるなど愚かな行動はしないが、こと焼き肉に関しては、だったら安い店に行っても味は変わらないよ?と思ってしまう。
安い肉でも処理をきちんとすれば美味しく食べることはいくらでもできる。逆にせっかく食べるものを極限まで美味しく食べようとしない行動は理解に苦しむ。
まぁ、そもそも食の好みなど押し付けられても迷惑なだけだし、各々勝手にされるがよいと思うが、美味しく食べる方法や美味しいものを知っていたら選択肢の選び方や、瞬間の行動が変わるのではないかと思うのだ。

誰だって美味しいものを食べたいに決まっている。それでも知らないから同じ食べ方をずっと続けてしまうし、正しく調理したら美味しいものも、不味いと一刀両断にしてしまう。
食材とは、好みでないものはあるかもしれないが、不味いものはそんなにはないと思っている。不味くしているのであって、旬の食材を楽しむ日本において、調理方法を知ることは人生の豊かさに直結しようというものである。

美味いものへの渇望こそ、幸福への最短ルートくらい思っているのだが、私の調理も所詮は私が美味しいと思う独りよがりの塊であろうと、本日も自重しようと思うものである。


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