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バッハとハイドンを弾く時のスタンス

以前投稿した記事で、バッハとハイドンの楽曲(特にピアノ曲)が大好物だと書きました。というわけで本日は、バッハとハイドンをどう弾くか・気を付けていることなどを中心に書いていこうと思います。
尚、シリーズ物の記事ではないので、他の作曲家の楽曲を弾く時のスタンスは書きません。あくまでバッハとハイドンに絞っています。

表現力って何だ?

「表現力」ーー。
ピアノ教室に通っていた中高生の頃、大学でのレッスンでも、このワードが毎回必ずと言っていいほど会話の中にあがります。辞書によると、

表現(他サ)
内面的・主観的なものを外面的・感性的にとらえられる手段・形式によって伝達しようとすること。表情・身ぶりのほか、記号・言語・音楽・絵画・造形などの方法が有る。
(新明解国語辞典第七版より)

つまり、自分のものさしで「これこれをこのように伝えたい!」という思いを、手段(自分でいうと音楽)で伝えようとすること。
(合ってるかな?)
他人の尺度はほぼ無視していることが基本で、あくまで自分のものさしであること(主観的)であることが根底にあるようです。

バッハとハイドンの音楽

難しいことは抜きにして、バッハとハイドンの音楽は、ざっくり言うと構成しっかりガッチリで硬い秩序のなかにあると言われています。
バッハは宮廷音楽家で教会音楽家で、ハイドンはエステルハージ家に仕えた音楽家でありました。いずれにしろ、「礼拝のための音楽」「貴族を楽しませる音楽」「楽器のレッスンのための音楽」を制作することがほとんどだったようです。それ以外の音楽ももちろんありますが、おおかた占めているのは、以上の3つなのではと。
世俗音楽や舞台音楽を書いていた記録も残っており、ハイドンのオペラは現在でも演奏される機会も多少あります。しかし、自己表現のための音楽が非常に少ないのです。

モノマネする

ここからが本題です。
いわゆる「お硬い音楽」をどう弾くか?どう表現して弾くか?
自分の考えは、

バッハとハイドンのモノマネをする

です。なんだそれww
つまりバッハとハイドンになりきるわけです。モノマネですから。
と言っても、カツラをかぶって貴族の服を着るわけではないです(汗)
当然のことながら、少なくとも明治〜令和に生きる人たちは、バッハとハイドンの素顔を見たこともないし、声を聞いたこともない。あの時代に録音技術があったわけでもないので、本人たちの演奏を聞くすべもない。何をもって「原曲(オリジナル)」と呼ぶかも難しい。
そうすると、手段はただひとつ、

バッハだったら、現代のピアノでどのように弾くか?
ハイドンだったら、
現代のピアノでどのように弾くか

を想像するしかありません。
彼らが生きた時代に存在していた鍵盤楽器と現代のピアノとでは機構が違うので、発音が違う。音域も異なるし、ペダルの仕様だって全く違う。オルガンはストップレバーで様々な音色を作り出すことができるし、チェンバロも同じような機能を備えているものが存在する。クラヴィコードは鍵盤を押してからも指の圧力を変えることで音色を変化させることができる。ピアノあであれば、ソステヌートペダルによって音を伸ばしたまま別の音でスタッカートを演奏することができる。
それぞれの鍵盤楽器で得手不得手がある。そもそも、楽器の世界に王様なんていないのです。

話が逸れる(゚∀゚)
つまり、彼らが生きた時代に隆盛を極めていた鍵盤楽器の弾き方をそのまま現代のピアノに写し出そうとしても無理があるのです。その逆も然り。彼らは、当時の楽曲を現代のピアノでどのように弾くんだろう。どのように弾いてほしんだろうと考える。それが一番の近道なのだと考えます。また、彼らの楽曲は隙きのないガッチリ構成の楽曲が多いので、楽曲のスタートからエンドまで淀みなく演奏するために「上手な構成を考える」ことも、ここでいう「表現」につながると言えるのではないでしょうか。フーガを弾く時に主題と対旋律をどのように処理するかということも、構成を考えるの一部分だと思います。
それらを実現させようとする気持ちで練習に臨むと、演奏方法の視野が広がります。また、何が何でもペダルを使わずにチェンバロ”みたいに弾く”ことから解き放たれ、リラックスして弾くことができるのでは。
そして今日もハイドンのソナタを弾くのです。

👋


ヘッダーの画像元:ヘンレ社公式サイトより
https://www.henle.de/jp/detail/?Title=The+Well-Tempered+Clavier+Part+I+BWV+846-869_14

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