好きなものが好きなのはすごい

 Celesteというゲームのサウンドトラックを買った。ダウンロード販売がなされているお陰で、海の外で作られた音楽でも、600円でまとめて購入できる。素晴らしい時代だと思う。

 この1年、色んなことがあった。世間でもそう、僕の身の回りでもそう。私事で言えば、住む環境が変わった。数年慣れ親しんだとある町を離れ、生家のある地元に戻ってきた。仕事に慣れるのにも時間がかかった。というより、今でも分からないことだらけである。仕事は当たって砕けて慣れろ、というスタンスの上司はハイスペックで尊敬できる人だが、如何せん新人はそれについていけない。彼がいないタイミングで、事務のおばちゃんと上司の文句を言う時間が憩いというのは、どこか不健全だ。でも、きっと僕がやる前に、歴史の中で既に幾度となく繰り返された光景なのだろう。だとしたら、不健全だけど、正常なのかもしれない。
 日々に忙殺されて、気が付けば継続的に文章を投稿していたのは1年以上前のこと。途切れてからは大して何かを書くという活動を行っていなかった。思うことは沢山ある。書きなぐりたいことも、数えきれないくらいある。でも、書くという行為には手間も暇もかかる。体力を使う。真面目に校正しないにしても、やっぱり疲れる。
 だとしても、書かずにいるのにもストレスが溜まるらしく、今日やっと「書きたい」が「疲れた」を上回る事態になった。親しい知り合いがnoteを始めたから、それに触発されたのかもしれない。
 何を分かってもらおうというわけでもないが、日記をつけるのともまた違う。ここに投稿するということは、つまり自省以上の何かの意味を含んでいるのだろう。何か「意味」が欲しくなったら、またきっと文章をここに投げ捨てていく。そういうことだろう。
 以下、文にまとまりはないし、思ったことだけを適当に書き連ねているから、気分を害する予定のある方はすぐにブラウザバックされたし。

 この1年で、色んなものを捨てた。好きだったメディアミックス作品への愛を捨てた。ソーシャルゲームの類で、CD展開も豊富な作品群である。つまり、好きなキャラの新曲が出ればまずCDを買いにショップに走る、というのが僕の行動パターンであった。或いは、ライブイベントの物販で売られた限定生産のCDを集めるのもよくやっていた。本物のマニアに比べれば大したことないだろう。でも、近しい仲間内ではまあまあ悪くない量と質のCDを所持していたのは自負するところだ。
 それらを、すべて売った。1枚残らず。コンテンツが嫌いになったわけではない。今でも通勤中にはその作品の曲をよく聴いている。でも、そこまで真剣に追わなくてもいいかな、という気持ちになった。理由は2つあるだろう。

・その作品を「本気で愛する」人々を見て、自己を恥じた。
 本気でそのコンテンツを愛する人々が持つ知識量、或いは派生知識の深さには、自分は到底太刀打ちできない。その人たちが持つ愛と、自分の持つ愛には、優劣はないと分かっていたとしても、やはり自分の愛の深さはショボいもんだと思う心情がどこかにある。かと言ってじゃあ、その劣等感を払拭するために動くような活動力もない。幾ら知識量で追いつこうとしたところで、彼らには勝てない。

 そのうちに、いや、勝つ必要なんてないじゃないか、愛はあればそれで充分なのだ、と消極的な自信が湧いてきて、結局もやもやした感情を拭えないまま日々を過ごしていた。それが閾値まで達したのがまず1つの理由だろう。

・その作品が「好きだった」人を見て、辟易した。
 解釈違い。あるキャラクターが、自分の思う「そのキャラクター像」と合致しない行動をとった場合に、ファン側がその状況を形容して使う言葉だ。まあ、何と幼稚な、って言ってしまえば簡単なのだが、厄介なことにその界隈で「発言力のある」ファンがそうなってしまうと中々悲しいことになる。特に二次創作で絵描きをしている人がそうなると最悪だ。
 その人の描く、そのキャラの絵は二度と見られない。或いは、前にその人が描いた絵に対しても何かもやもやしたものを感じながら眺めるしかない。新規供給が絶たれ、過去の供給も受け付けなくなると言うのは残酷だ。考えられる限り最も。
 でもまあ、それはつまり受け取り手側の、自分の問題だ。誰に怒りをぶつけたとて、状況は改善しないし、良いことなんて何一つない。するとこのやるせなさを背負って生きていくしかないわけで。
 まあ、僕自身も最初から二次創作なんて見なければ、ひいてはコンテンツを好きにならなければこんな苦しくもなかったのかな、と思うわけで。これが2つ目の理由だろう。

 オタク、という人種は、好きなものを好きでい続けられる存在だろう。というか、ある程度の域まで好きが極まっちゃう人だから、オタクと呼ばれるんだろう。
 だとしたら、自分の中の好き嫌いに他人の目を持ち込んでしまう僕は、オタクではない。
 そんな僕が、これから先、大量のCDを抱え込むことは、正しいことではないだろう。渡るべき人の手に、渡るべきなんだろう。CDを整理することは、自分の中の気持ちに整理をつけることでもあり、贖罪でもあったのだろう、と今にして思う。
 3万円と少し。それが僕の「一生懸命だった」青春についた価値だった。安い安い、愛だった。

 好きなものを好きでい続けられる人は、本当に尊敬する。「そんなこと」すらできない人間が、ここにはいるのだから。

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