大学受験のための映画講義#5

こんにちは。與那覇開です。
大学受験のための映画講義シリーズの5回目です。

以前、某予備校の日本史テキストが外部からのクレームによって、テキストの中身の一部を削除したというニュースがありました(1)。削除されたのは、竹島と南京事件に関する記述のようですが、前者は韓国とのあいだで領有権が争われている問題ですし、後者は中国との歴史認識の論争で話題に上ることがよくあります。予備校のテキストに限らず、学校の教科書においても歴史という科目は外部からの批判の目に晒されやすいです。これは歴史的事実における正確な記述への期待というよりも、ひとつの「思想戦」と見なければいけません。今回の映画講義シリーズ第5回目では、ホロコースト否定派との論争を扱った『否定と肯定』(イギリス 2016)を紹介しながら、歴史修正主義の問題点について考えてみたいと思います。なお、この映画は、二〇〇〇年の英国の王立裁判所で行われた「デイヴィッド・アーヴィング対デボラ・リップシュタットとペンギンブックス」裁判の実話に基づいています。主演は、『ハム・ナプトラ』シリーズで知名度を上げたレイチェル・ワイズ。

あらすじ

米国エミリー大学で教えるデボラ・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)はホロコーストの研究者です。映画は、リップシュタット教授が、学生相手にホロコーストを否定する論者の特徴を解説するところから始まります。リップシュタット教授は、『ホロコーストの真実』という著書もあり、テレビからもインタビューされるようなちょっと売れっ子の大学教授です。リップシュタット教授は、市民参加型の講演会も開催していて、ホロコースト問題についての啓蒙にも務めています。ある日、その講演会において、デーヴィッド・アーヴィングという、ヒトラー研究者を自称する人間が紛れ込んできます。リップシュタットは著書で、このアーヴィングのことを「ホロコースト否定の最も危険な代弁者」と書いています。アーヴィングは参加者の質問時間のタイミングを見計らって、ホロコーストなど壮大な嘘っぱちであること、そして、悔しかったらここで私と討論してみろと挑発的な演説を始めます。リップシュタット教授は、否定論者とは一切討論しないと言い、相手にしません。会場は一時騒然としますが、講演会自体はなんとか無事に終了します。しかし、会場の参加者はアーヴィングの新奇な説を面白がる人もいて、アーヴィングの著書にサインをしてもらおうと群がります。リップシュタット教授はその光景を見て、なにか不穏なものを感じます。その後、アーヴィングがイギリスで、リップシュタット教授を裁判に訴えたという知らせが入ってきます。訴訟内容は、リップシュタット教授の著書においてアーヴィングを歴史の捏造者に仕立て上げることが侮辱罪にあたるというものです。ホロコースト否定論者とはそもそも議論しないという方針のリップシュタット教授ですが、被告となってしまっては、さすがに受けて立つしかありません。かくして、ホロコーストの有無をイギリスの王立裁判所で決着をつけるという前代未聞の事態になったのです。また、リップシュタット教授にとっては不利な点がありました。名誉棄損裁判においては、アメリカでは原告側に挙証責任がありますが、イギリスでは被告側に挙証責任があります。リップシュタット教授は、一方的に訴えられた裁判で(まあ裁判とはそういうものですが)、侮辱罪には該当しない理由を自ら証明しなければならない立場を背負わされたのです。はたして、裁判の行方はどうなるのでしょうか。


歴史とは何か

日本において、ホロコースト否定論に相当するのは、南京大虐殺否定や従軍慰安婦否定でしょう。なぜ一部の人たちは、過去の出来事を否定するのでしょうか。なぜ歴史の事実を事実として受け止められないのでしょうか。日本では、1990年代以降に、このような歴史否定論が流行しました。保守系知識人が、日本の歴史教科書は自虐史観で染め上げられているなどと主張し、こんな教科書で学ぶ子供たちは不幸だとして、誇りある真実の歴史を伝える「新しい歴史教科書」を作る必要性を主張しました。このときの事情について、鹿島徹はこう述べています。2013年関西学院大学現代文(第1問)で出題された箇所から引用しましょう。


「南京大虐殺」「従軍慰安婦強制連行」ーこれらの出来事が史実として「実在」したのかどうかについて、もとより論争が行なわれもした。だが、「国民的史書」と目される歴史教科書に、それらについての記述をわずか一、二行でも載せることの是非が、なにより激しく争われたのである。これは国家という「共同体」のレベルで記憶されるべき史実の選別をめぐって、ということは特定の史実についての記憶の抹殺をめぐって、一国内部の言論界でたしかに「内戦」が行なわれたということにほからない。(鹿島徹『可能性としての歴史-越境する物語り理論』岩波書店)

歴史という科目が、英語や数学などの教科と違って、しばしば政治性を孕むのは、歴史は国民にアイデンティティを与える役割も果たしているからです。大抵の場合、建国神話や、戦勝や独立運動などの国家的偉業が、国民意識としてのアイデンティティを涵養してくれます。歴史を学ぶということは、過去の記憶を共有することによって国家への帰属意識をともなった「われわれの歴史」という感覚を芽生えさせることです。アイデンティティはよく自己同一性と訳されますが、中村雄二郎は、「歴史的連続性」(『術語集』岩波新書)という訳も与えています。つまり、自分の存在が、先祖から連綿と続く悠久の歴史の延長上に位置づけられているという自覚ですね。歴史をそのような連続性として受け取るとなると、どうしても物語が必要になってきます。出来事を単純な羅列順に並べるのでなく、国民のアイデンティティを確立する史実の情動的な配置が求めれます。そうなると、どうしても過去の不都合な歴史は抹殺したくなる。そのため、学校教育で使用する教科書に従軍慰安婦や南京大虐殺などの記述が「わずか一、二行でも載せることの是非が、なにより激しく争われ」ることになるのです。こうした過去の負の歴史に対する隠蔽や矮小化を歴史修正主義といいます。また、歴史修正主義というのは、現役世代だけでなく、未来の世代に受け渡すアイデンティティ装置の役割としても機能します。そういう意味で、歴史修正主義とは、「本質的に未来志向」なのです(武井彩佳『歴史修正主義』中公新書、16頁)。念のため補足ですが、歴史を修正する、と聞くと、そんなの当たり前じゃないか、新史料の発見等で、新たな事実が明らかになれば、歴史は書き換えられるのが当然ではないか、と思う人もいるかもしれません。しかし、歴史修正主義とはそのような学問的プロセスの話ではありません。さきほども述べたように、歴史修正主義は、実証的な事実確定よりも誇りあるアイデンティティを優先する強い政治性を帯びた歴史否定なのです(実際、欧州では、歴史否定という言い方をするようです)。したがって、歴史修正主義には次のように定義も可能です。2016年早稲田大学文学部の現代文(第1問)から出題です。


修正主義とは、マジョリティが自分たちの普遍性なり標準性の体裁を守るため、マイノリティの歴史的従属をなかったことにする、記憶の不正である。(高橋若木「『街の群衆」の普遍主義」『社会はどう壊れていて、いかに取り戻すのか』同友館)


もちろん、このような記憶の不正は、日本だけではありません。ドイツでは、戦後、ナチスの元親衛隊が、ナチスドイツの犯罪を相対化するために様々な主張を繰り広げました。ホロコーストはなかった、あっとしても極めて小規模であった、ヒトラーはむしろユダヤ人を救おうとした、被害者は嘘ばかり言っている等の言説が戦後ドイツの言論空間には存在していました。このようにナショナル・アイデンティティを強く保持するものにとって、過去の不都合な記憶と対峙するときは、記憶喪失になるか、記憶を書き換えるしかありません。


修正主義者と対話すべきなのか

さて、このような歴史修正主義の台頭は非常に危険だといえます。まず、歴史の抹殺が許されてしまえば、以降、どのような悪事を行っても、都合のよいように書きかえればそれでよいという倫理的退廃を生むことでしょう。近年、フェイク・ニュースやデマという言葉をよく聞きますが、このような事実を蔑ろにした虚偽言説は、単なる遊戯を越えて、政治的に深刻な問題を招きます。マイノリティへの差別や分断にますます拍車がかかるかもしれません。では、私たちは歴史修正主義に対して、どのように向き合えばよいのでしょうか。映画では、リップシュタット教授が、講演会を聴きにきた学生から、「なぜ議論しないのか? 民主主義を否定しているのではないか?」と質問される場面があります。それに対して、リップシュタット教授は、「議論はしない。そもそもホロコースト否定論は事実を無視しているので、議論しても意味がない」と答えます。この返答は、一見、不誠実に見えますが、実は常識的な判断です。繰り返しますが、歴史修正主義は、彼らの考える真っ当なアインデンティティを満たすために、歴史を手段として利用します。逆に、リップシュタット教授のような学者は、歴史を国民の物語に回収されるのを拒み、歴史の事実を明らかにすることを使命としています。両者はそもそも目指すべきものが違っており、リップシュタット教授が「議論しても意味がない」と言うのは当然の反応と言えます。また、もし、うっかり議論の相手などでもしたら、ホロコーストという歴史の事実に「あった(肯定)/なかった(否定)」という二項対立の図式を用意してしまうことにもなりかねません。そうすれば、事実の重さが揺らいでしまう。一般に、歴史修正主義は、ホロコースト否定を強く唱えることで、実はこの問題は賛否両論あるのだという世論を作ることが目的だとされています。歴史修正主義の人が議論好きなのはそのためです。映画でもアーヴィングは「議論をしよう」とよく言います。議論をすることで、ホロコーストという歴史の重さに、否定論が入り込めるひとつの隙間を狙っているのです。というわけで、ほとんどの学者は歴史修正主義に対して「相手にしない」という態度を取っています。しかし、私はこの「相手にしない」という戦略は、あまり有効ではないように思えます。たしかに、歴史修正主義者はアカデミックな学者よりも、在野の研究者が多いです。そういう意味では、正規の学者が歴史修正主義者に対して相手にする価値なしと思うのは当然かもしれません。しかし、いくら相手にしないからといって、彼らの歴史否定言説を止めることはありません。逆に「専門家は誰も反論できない」などといって大衆に訴えるのオチです。私が危惧しているのは、歴史修正主義者を野放しにすることによって、歴史修正主義が大衆化してしまうことです。これはネットなどを見ればすでにそうなってると言わざるを得ません。「相手にしない」と言っているだけでは、何も解決しないではないでしょうか。むしろ、専門知を備えた学者が前面に出てくる必要がある。そもそもリップシュタット教授が『ホロコーストの真実』を執筆したのも、歴史修正主義者の歴史否定を許してはいけないと考えたからでした。最近、『レイシズムを考える』(共和国)という本を読んだのですが、歴史修正主義にはじまり、ヘイトスピーチ、構造的差別がしっかり分析されており、執筆陣の学者たちの社会的責任がひしひしと感じられて安堵の思いがありました。とはいえ、日本では歴史修正主義に対するアカデミズムの態度はまだ本腰ではないように感じます。いま一度、事実の重みをアカデミズムが後押しするべきだと思います。映画では、裁判の後の記者会見で、リップシュタット教授が次のように述べる場面があります。「意見は多種多様ですが、否定できない事柄があるのです」。


1 https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/

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