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264.亀虫の死にどころなくゆっくりと歩む背中に春の流れり

265.五時となり薄桃色のチャイム鳴るかすかに他人の命日を聞く

266.寄る辺なき夜をあつめて飲み干せばひとつ標(しるし)を置いていけるか

267.くの字なる吾を囲みし柵を解き桜の咲くを吐くまで見たし

268.十回のナイフで刻む吾が恋を口に入れつつこころ閉ざせり

269.「比喩めいたリリックがまずツボです」に「比喩めき」なるものの手触り想う

270.道を聞かれ道を教えるようにして導かれにし歓楽のそと


•創造物を鑑賞する者としての論考:
一体創造にかかわる者(以下創作者と表す)の生命は誰によって保護されるか。
当然、彼らの属する国や、組織や、創作者自身によって保護されるものであるが、もし創作者あるいは彼らの創作活動を直接管理する立場にある者が、創作者の精神・生命を直接的に用いて作品を作るときは、第三者すなわち鑑賞者としての振る舞いに注意を要する。
創作者にとって、作品を産む際に生じる不可避的な精神の傷は、本人が気づかない内に深い層へ到達し、その修復には長い時間を要することがある(子を産んだ親がひとりで回復することが難しいように)。
また、自己流の瞑想や催眠などを用いて無意識の層にまで潜って製作する場合、一旦潜った意識をそのままにしておくことは危険である。
創造行為を引き金として現実感が薄れてしまい、自らの世界に長く引きこもってしまったり、苦痛に耐え切れず自らの生命を絶ってしまう例がない訳ではない。
所謂アーティストと呼ばれ、自らの精神の結晶物を供物のように曝け出しながら生きようとする人種が、どれほど自らを犠牲にしているかは、他者には見えにくいし、本人ですら気づいていないことがある(ただこれは芸術の分野に限らない。農業でも、製造業でも、子育てでも、福祉や教育においてでも、凡ゆる場所で人は自らの生命を使って自然に働きかけ、何らかの結晶を掴み取る)。
そのため我々鑑賞者は創作者以上に作品を敏感に感じ取り、創作者の命を無意味に削らせることや、死を助長するような振る舞いは避けるべきである。
少なくとも、創作者を神のように崇めたり、自分本位な期待を込めたり、勝手に裏切られた気分になることは勧められない。
仮にそれが創作者に喜びを与え、新しい作品を産む動機になるとしても、無責任な立場から彼らの死を願うことと同じである点には注意しなくてはならない。

死の崖まで行くことは簡単だ。
ただ目を瞑り、過去や未来の自分と語り、ちょっとした風の種を起こしてやるだけで、やがて身体が張り裂けるほど強大な嵐に成長し、崖の縁まで吹き飛ばしてくれる。
自身のこころの内にある、身を砕くほどの激しい嵐や、気が遠くなるほど孤独な海の底や、五感を麻痺させるような毒霧の中や、身体中の空気が搾り取られるような宇宙の中に創作者は潜り込み、結晶を発見し、そのかけらを採取してくる。
そうした行為を何度も繰り返すことで、徐々にその場所に流れている風を掴み取り、より深い場所へ到達したり、安全に素早く帰ってきたりすることができるようになる。
だが恐らく、この危険な冒険を遂行するための技量と、素晴らしい作品を作る技量は、全く別の経験値を要する。
特に、現実に帰ってくるための準備を創作者自身が軽視していることがあるが、これは仕方のないことなのかもしれない。良い結果を出すために想定以上の燃料を使い果たしてしまうことは往々にしてあるから。
ただ、そのようにして命懸けで作られた作品を見るときに感ずる高揚感を持っても良いのは創作者であって、鑑賞者はこの世で最も臆病な存在として、まずその勇気に恐れ慄かなくてはならない(彼らの作品を愛したいと思うなら)。

口では創作者を支援したいと言っている者が、まるで犬にボールを取って来させるかのように創作者に命懸けの潜航を促し、作品のみを誉めそやして何の配慮もせず、自らの欲望を満たすために生命を貪るということは、当然のように存在する。
これを防ぐ方法について、私は正しい回答を持っていない。
なぜなら私自身がそうであったことは否定できないし、これからもそうである可能性があるから。
ただ、私自身が再び誰かを食らう怪物になることのないよう、自分で自分を批判し続けるしかない。



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