【日記】あてさき

273.夢のうちでしか聴こえぬうたなどて口に出でつつ毛布を撫でり

赤ちゃんが言葉を獲得するプロセスの起点にあるのは、「記号」という概念ではなく、「宛て先」という概念です。

内田樹「街場の文体論」　p.176

……ええ、ここ一年ほどは目覚まし時計を使わずに起きています。
まあ遅刻しても良いやっていう、自堕落な学生みたいなメンタルを育んだ結果そうなったんですけど、朝起きると頭の中にメロディーが流れているんです。
日によってポップスだったりバラードだったり、チルアウトだったりするんですけど、どれも知らない曲です。
あの、もちろんクスリはやってませんよ。
僕は楽器を弾けないし楽譜も読めないから、とりあえず鼻歌を録音してるんですけど、聞き返しても意味わかんないなという感じで、でも何か、不意に手に入れたものって捨てられなくて、伝わるかわからないですけど、誰かからもらったプレゼントの手提げ袋がきれいだからキッチンの棚に入れて取っておこうというような、そういう貧しさの精神で記録をしています。
言葉もそうで、今が使いどきなんだろうけど、使うと何かを取りこぼしそうでやだな、という葛藤をいつもしています。
言うだけならタダ、というのは本当にその通りなくせに、使った瞬間に未来が決定的になることがあるじゃないですか。
僕にはまだその覚悟を背負いきれていないんだと思います。
だからわざと適当なことを言ったり無言を貫いたりして、相手を混乱させるんです、そうやって未来をなるべく未確定にしてるんです。
でも、だからどうか、あなたにはきちんと正直でいられますようにと祈っています。
つまり、自分が管理しているつもりのことばが僕の中で勝手に動き回って、がん細胞のように増殖している感覚があるので、僕にはもう僕自身の言葉なのか、ことばの世界の言葉なのかが分かりません。
無責任だと思われるかもしれませんけど、結局僕は祈ることしかできないんです、それが僕自身の経験から出たことばだろうと、この世界に蓄積された自然物としての言葉だろうと、それがあなたを攻撃しないものであって欲しいということを、祈っています。
その一方で、偶発的な、火花のような瞬間を待ち構えている自分もいます。
あなたや自分のからだが内側から焼かれるような、ひどい痛みを耐え続けていくとしても、それでも価値があると言えてしまう、ことばの鉱脈がどこかに眠っているような気がしています。

……この病院へは昨日救急車で運ばれてきました。
飲み会の待ち合わせに遅れそうだったんです。それで久々に全力で走って、居酒屋でビールのグラスを頼んで、その後日本酒を少し飲みました。
でまあ、貧血になって、目の前がだんだん白くなってきて、ここから僕の悪い癖が出て、もうすぐ自分が気絶するだろうということは分かっていたから、せめて誰にも見られないようにトイレで気絶したいなと思ったんです。
気絶する瞬間や眠っているところを他人に見られたくないんです、恥ずかしいから。
それでトイレに向かったんですけど、トイレの扉の開け方が分からなくなって焦りました。
扉を開けるという行為が分からなくなってしまったんです、変ですよね。
あれあれと思いながら扉をさすっていたんですが、そこから記憶が途切れて、次の瞬間には一緒に飲んでいた人に抱きかかえられていました。
小さなお店だったので、お客さんも店員さんも全員が僕を見つめていて、後頭部が痛くて、とりあえずたくさん謝りながら支払いを済ませているうちに救急車のサイレンが近付いてきて、まさかと思ったら僕のために救急車を呼んでくれていて、そのまま運ばれてきました。
さっきCTを撮ったんですけど、頭に異常がなければこの点滴が終わったら帰れるそうです。
点滴って結構痛いですね。
からだの中に風が吹いているみたいに寒いです。

……四月一日にお酒の飲み過ぎで倒れて頭を打って救急車に運ばれるって、本当に馬鹿ですよね。
このままいっちゃったりしたら相当間抜けで面白いとも思ったんですけど、一緒に飲んでくれた人や、お店の方や、救急隊員さんにとっては後味が悪いでしょうから、生きていてよかったです。
後味良くいなくなる方法ってないんですかね。
でもまあ、そんなのがあったらみんないなくなっちゃうか。
春はこの世を発つ人が一番多い季節らしいですけど、他の季節よりも気持ちよくいけちゃいそうな気はしますよね。
ぽかぽかして、桜が舞って、日差しがきらきらしてたら、少しお出かけするような気持ちで、飛んでいってしまうのかもしれません。
先日も僕の知り合いがいなくなりました。
こうやって春が来て、桜が散るのを見ると、今までお別れした人たちのことを思い出してひとりになってしまうので、僕は春が苦手みたいです。

……ところであなたはどなたでしたっけ。
別に誰でも良いんですけど、あの、またお話できたりしますか。
今また貧血がきちゃったみたいなので、しばらく休ませてもらいます、あんまり見ないでくれると、嬉しいです。
なので、今は無理なんですけど、また、どうか、よろしくお願いします。