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昔から市教委ってこんな感じだよねという話。

なんで「またか」と思うようなことが何度も何度も起こるのか。

四半世紀前に市教委にいじめを訴えたとき、教員は公務員なので一般企業なら即クビという話でも法律上クビにすることが難しいから、クラスも授業も持たせず、訴えられない程度に「辞めていただく」よう仕向けるのだと、大真面目に説明され、開いた口がふさがらなかったのを嫌でも覚えている。どうもこの人たちは、かばいきれないのでもう身内じゃないと判断した人間に、正義のためにパワハラをするという習慣を、ナチュラルに「指導」と呼んでいるらしいのだ。それが法律で、法律が整っていないからこそ、そういう「お仕事」が発生してしまうことに関しては、思うところしかないのでここでは触れないけれど、問題は身内の恥を暴いた人間に対しても、彼らは同じ対応を取るということである。特に「自分の話は自分でさせてください」と、大人と一緒に話し合いに同席している私に対して、彼らは「子供のくせに生意気だ」という態度を隠そうとしなかった。私の分だけ椅子やお茶が用意されていないのはいつものことだったし、お手洗いを借りようとしたら「子供用はない」と言い張られて使用を妨害されたり、中には通りすがりに赤ちゃん言葉で嫌味を言ってくるような職員さんまでいたので、こっちが本音なんだなというのは嫌でもわかる。両親(大人)に対しては、無礼を働く時ですら馬鹿丁寧だから余計に。

今もこういうニュースに苛立つのは、トラブルだろうが不祥事だろうが、その話が組織の外に出さなければなかったこととして扱えるし、言い回しを変えてしまえば悪い話もいい話にできてしまうと本気で信じこんでいる方々が、まだ組織に居座っている事実をまざまざと見せつけられるからだろう。暴力ではなく指導です、いじめではなくケンカです、意地悪ではなく感情表現が苦手なだけです、アットホームな職場です等々。プライバシー云々の話だって、立派な言葉の置き換えと論点のすり替えでしかない。そういう言い方はないだろうと追及すれば本題から遠ざかり、本題を優先すれば非礼を追及できなくなる。どちらを取っても被害者が傷つくし、どちらを取っても片方のやらかしは追及されずにすむような言い回しが「被害者を思って」の言動だとは思えないし、そのやり口が未だに変わっていないことが腹立たしい。そして、子供を「守るべき存在」という言葉で見下しているからこそ、身内を守るためのダシに使うという、卑劣な行動がとれるのだろう。いい加減、言葉と論点をすり替えて居直れば、全部うやむやにできるなどと思わないでほしい。どれだけ事実を隠そうとしても、解決する気がないことだけは隠しようがないのだから。

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