見出し画像

言ってはいけない言葉。

「いじめがあったという事実をなかったことにするためには、被害者に不幸な事故で死んでもらえばいい。そうすれば卒業アルバムを修正する必要も、卒業式で特別な配慮をすることもなく、追悼文集を改めて作ればいいだけのことだから。追悼文ならみんな悪口も言わないでしょう」と言われて、血の気が引いたことがある。「なんならやり方を教えてあげましょうか?」とまで言われたので、これはもう自ら命を絶てと脅されたに等しい。教員に。

自分の命というものがどこまでも軽く見られていることは、嫌でも知っていた。実際、修学旅行先で華厳の滝を見て「おいお前ここから飛び込めよ。お前が死んだ分の保険金でここにいる全員がジュースぐらい飲めるだろ」と教員に暴言を吐かれたこともあるし、その時教室内で流行していた遊びが、私を死んだと仮定してえげつない「もしも」の話をすることだった。「早く死んでくれないかな」「あなたが死んだら葬式のあとにファミレスでクリームソーダ飲めるんだから」と聞こえよがしに言われたり、時には教員も加わって「今のうちにこいつの机と椅子、小さいのに変えとけ。こいつちっこいから問題ねえし、運び出すとき楽でいいだろ」などと言い出すこともあった。お前ら、倫理観って単語どこに置いてきた。なお、この件以外にもえげつない悪口やら、今でいえば誹謗中傷の類に属するであろうあれやそれやがあったのだけれど、学校の対応は「ついうっかり願望を口にしてしまったことは悪口には当たりません」だった。お前らの倫理観も大概やぞ。

狭い教室の中、遊び感覚で自分の死を願われ続けるということが、どれだけ苦痛かを言葉にするのは難しい。いや、言葉にする理由もないだろう。言ってはいけないことを言われたほうが傷つかないわけがないのだ。だからこそ「言ってはいけない言葉」なのに、言ってはいけないことを言っていないことにするために、どうして言われたほうがスルースキルの限界をぶっちぎるような我慢を強いられなくてはいけないのか。私は今でも納得がいっていないし、永遠に納得するつもりもない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?