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「これはフィクションです」という悪気しかないノンフィクションの話。

高校生の時、演劇部の顧問が「高校演劇に風穴を開けてやろうと思って徹夜で書いた」という脚本を持ってきて、その内容にショックを受けた女子生徒がバタバタ倒れ、学校中が大パニックになったことがある。そりゃ、差別用語と放送禁止用語中心の罵りあいと、合間に挟まれる陳腐なエロで構成されたお芝居を書いてきました、みんなでやりましょうと言われて、誰がやりたいと思うのだろうか。理解に苦しむ。

先生の脚本は基本的に「当て書き」で、自分が気に入った生徒を持ち上げることが基本にあり、気に入らない生徒には「このくだりいらなくね?」というレベルの不条理な役とシーンを用意する。当然「これどういう意味?」と疑問の声が上がるけれど、先生は「フィクションだから深く考えないで」の一点張りで、あくまで「気のせい」で片付けようとするのだ。なんというか、生徒の外見的な特徴から趣味嗜好に家庭環境、さらには持病や体質まで役に反映させておいて「これはフィクションです」が通用するわけないだろう。シンプルに悪意しか感じない。

私もその「当て書き」をされたり、前出の脚本で倒れてしまった人間の一人だ。もちろん陳腐なエロやうわべだけのグロで構成された世界に自分が放り込まれたことへの怒りもある。それよりも、自分の持病を「笑えるネタ」として作品の中に放り込まれ、笑えないシーンを書かれたことが、何より我慢ならなかったのだ。人が過呼吸やパニックを起こして苦しんでいる姿がそんなに面白いのか、脚本にカッコワライという言葉つきで採用するほど面白いのかと。

うちの高校はちょっと特殊なところで、他の学校より不登校経験者や、別の学校でいじめにあって、うちの高校へ転学してくるという子が多かった。だからそ、まだ不登校経験者やいじめ被害の当事者に、とりあえず冷たい視線を浴びせる文化があった中、今でこそ主流になった「相手のことを考えないいじりは基本的に全部いじめ」という感覚を、当事者として知っている人が多かったのである。そんな場所であんな脚本を「面白いと思ったから書いた。深い意味はない」と言い放ち「ショックで倒れる人が出たことより、ショックで倒れるレベルで拒絶されたことのほうが俺はショックだった」と口をすべらせたら、シャレにならない地獄絵図が展開されるのは当然の事だろう。やっと不安から解放されたのに、またなんとなくで傷つけられるんじゃ、やってられないよと。

結局、例の脚本は当然の対応としてお蔵入りになり、私も退部届こそ出さなかったものの、もう演劇部にも先生にも関わる理由はないと、できるだけ先生に会わなくてすむ別の校舎で勉強をするようになった。そんなある時、先生が書き上げたという、新しい脚本の存在が明らかになったのである。仲のよかった演劇部を、身勝手で引っかきまわした生徒を結託してたたき出し、ケンカもしたけどやっぱりみんながいいよねとキレイゴトを言い合った結果、その子をみんなで迎えに行って、全員が涙して終わるという脚本が。ふざけるな。先生は相変わらず「この物語はフィクションです」を貫いていたけれど、そのたたき出される生徒が、お蔵入りになった脚本のワタシモドキをさらに過激化した、ワタシモドキパート2であることは、誰の目にも明らかだった。どうせけいこさん参加しないし、少し派手にこき下ろしてやってもバレねえだろう、役引き受けてくれる子はけいこさんと面識ないし、事務所に所属して俳優やってる子だから、悪い演じ方はしないだろう、え、バレた? どういうこと? という慌て方をされた時には、あんたどこまで自分の言葉と行動に責任を取るっていう概念がないんだと、心底呆れかえるしかなかった。あんた最低だよ。

あれから十五年以上がたって、やっと当時のことを文章にできている。正直、書こうとすら思えないぐらいの、事実を並べるだけでしんどい話のオンパレードだったので、書ききれたことに意味があるのかもしれない。今となっては、高校生活なんてただの通過点に過ぎないのだけれど、その点を通過するまでの時間というのは、どうしてもその場所だけが世界のすべてに見えてしまうもの。それに気づけただけでも、ここにこうやって書きだした意味があると、ほんの少しだけ信じてみたいのだ。

でも、三日連続で先生がお持ちのwebサイトの日記に、私とわかるイニシャルトークで、グチグチ悪口書かれたときのことを思い出すと「おいてめえ表(オフライン)出ろや」と言いたくもなりますけどね。んふふふ(怖いよ)


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