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耽美、私の好きな言葉です。

KAMIJOさんのバースデーライブに今年も参戦してきた。同じ時間にサッカー日本代表の試合があって、ベルマーレから三人も選手が選ばれているとか、ちょうどPSGが来日しているため「今パリとサンジェルマンっていったら、伯爵ではなくそっちでは」という素朴な疑問や日常の葛藤を、開演前にはなまるうどんのおろしぶっかけうどん(冷)で蓋をして、いざライブへ。いやもう、出だしから全然耽美じゃない。だって、日付変わって一番最初にしたことが、玄関にいた少し大きめの虫を、センターバックの選手のごとく外へ蹴りだすことでしたから。まったくもって、耽美には生きられそうもない。てか、いつになったら私は平塚に行けるのだね(絶賛今年現地観戦ゼロ継続中)

耽美じゃないの積み重ねはともかく。幕が開いた瞬間、ステージ中央の玉座に腰かけていた貴族様は、ダヴィッドの絵の中から飛び出して来たかのように美しかった。もしくはラインハルト(銀河英雄伝説)の実写版。それにしても、あのレベルであの世界観を極めていると、玉座の上で手を振るだけで客席が動くのだなあと。以前貴族様は「自らの人生の王は自分自身」とおっしゃられていたけれど、あの麗しい姿を見せられては「Vive le Roi(国王ばんざい)」と心の中で叫びたくなるだろう。その王様自ら「Vive le Roi!」と音頭を取ることには慣れたけれど「We Are KAMIJO!」にはさすがにずこっと音を立てそうになったよ。なんともお茶目な貴族様。

人間には不思議と、迷った時に意図的に原点に立ち返ろうとしなくても、自然と戻ってしまって「あー、やっぱりここへきたか」みたいになる場所がある。私にとってはKAMIJOさんの音楽というのが、まさにそれだなあと。リアル十四歳のときに魅了された世界だというのもあるけれど、好きも嫌いも大人の監視下で♪雁字搦め薔薇薔薇の~という場所から抜け出せた時、一番最初に自分で選び取った「好き」というのも大きいかと。

そういえば先日、メトロポリタン美術館展で、ヴィジェ・ルブラン作の「ラ・シャトル伯爵夫人」の肖像画を見た。音声ガイドによると、彼女は年の離れた貴族と愛のない結婚をしたけれど、実はずっと愛し続けている秘密の恋人がいて、この肖像画はその恋人に贈られたものだという。革命が勃発したその年に描かれた作品に「平民たちの多くが明日のパンにも困ってるときにねえ」と嫌味を言うのは簡単だ。だけれど、彼女にとってはそれが人生最大の悩みなのである。立場が変われば悩みも変わるもの。たとえ明日のパンの心配をしなくてもいい人間であっても、人というのは理由はどうあれ悩み苦しんで生きるものなのだろう。貴族様のライブを見たあとで、目の前にあるその絵のポストカードを見ると、改めてそう思う。悩みに優劣も貴賤もないのだ。皆違って、みんな苦しい。それが人間である。孤独は思想の戯れ、涙は記憶の覚醒、貴族様もそう歌っているじゃないか。

世の中、続けることほど難しいことはない。好きでい続けることもそうなら、なんなら生き続けることもそれなり以上に難しい。だから、色々あったという言葉でも表現しきれないあれやそれやを抱えたうえで、ここまで歩んできた自分を、きちんと自分自身で肯定してやらなくては。そうじゃないと、自分も救えないし、自分も救えないなら、誰のことも救えない。そう自分に言い聞かせるというよりは、深層心理と深く向き合って「これからも頑張っていこうな(グラスをこつん)」とできるような一日だった。Vive le Roi!

しかし、会場を出るなり「そういえば代表戦の結果」とスポナビのアプリを立ち上げた瞬間「得点者・町野修斗」という文字を二つ見つけて、お台場のガンダムの前でリアルに変な声を出しそうになったので、やっぱり私は耽美に生きられそうにない。しかもその直後にガンダムの写真を撮ったから、なんかその時の私の表情やら感情やらがシンクロしちゃってるんだけど、それはそれで奇跡の一枚ということにしておくか。美しければそれでいいじゃない(すべてを片付ける魔法の言葉)


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