自認と他認のギャップの狭間で

自分がいいと思っている自分の良さを、うまく表出できない時の歯がゆさ、枯渇。

それでも自分だけは自分の事を全力で肯定していたいから、自分の内部から湧き上がってくる不可逆的なエネルギーを螺旋状に放出して、内から外へ輝きを放ちたい。

自分が自分であるということで世界に必要不可欠な存在になりうるのだという当たり前な気づきはお肉をふんだんに使ったハヤシライスの味と混ざり合い、胃の中で吸収されていった。

仕事終わりに食べたシュークリームがその日のコンデションを教えてくれるのは、カトリーヌ姫とセブンイレブンの粋な計らいだということはさておき、ガソリン代高騰による我が家の財政難を嘆きながらも、秋の実りに感謝しながら女神への供物の手配をする。

すべてを「愛」という言葉に帰着させるようになった僕の言語能力の老いは、愛を否定したかった 20 代の僕への遠回しな肯定だということを肝に銘じながら、許容も照射も素直さも捻くれもすべては愛への道のりだと壺のような形をした己の器を抱えて歩く。

話は最初に戻り、自認と他認のギャップをいかに埋めるかは人生単位のプロジェクトだと思っている。自分はこういう人間だとう中から見た自分とあの人はこういう人間だという外から見た自分。行き過ぎた自認は暴発するし、過度な他認は窮屈さを生む。それはきっと逆さにした壺を中から見てるか外から見ているかの違いで、でもどちらの視点とも同じ壺
を見ていることに変わりはない。


壺が薄ければ薄いほど内外のギャップは埋まりやすい。厚ければ厚いほど中と外で見えている像は変わってくるのだろう。この壺が自分だとして、どうしたらいいのかと決めかねているのが今の自分だ。中に装飾を施して自分の好きなものたちで飾りこめば、その壺の中は居心地のいいものになっていくだろう。でもそこは自分ひとりしか落ち着けないような一人ぼっちの壺になる気もする。では逆に外装を施していろいろな模様を施せば、他人と共存できるような壺になるのだろうかと思えども、そこには無理が生じて最後はひびが入る予感がしている。現段階でどうしていくべきかはわからないけれども、気がつけば手を動かして、中を装飾したり、外に模様を付けたりして、生きているからそれでいいと思う。


人生は螺旋だ。あっちへ行ったり、こっちへ行ったりたくさん寄り道もしているが、しっかり上昇している。この迷いもきっと上昇気流の一つなのだろう。

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