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友人

「だからさ、私は周りの友達も巻き込みながら、一緒に頑張りたいんだよね」


 ボールペンで図を描きながらリオコはそう口にした。私はぽつんと両腕を膝の上に乗せたまま、氷が小さくなりつつあるアイスティーを見つめている。


「系列で言うと私の下に尚美が付くから、尚美が新しいメンバーさんを勧誘するのを私がフォローしていくって感じ。やり方とかは私もだし、他の系列のリーダーさんたちからも教えるから、みんなでサポートするんだよ。チーム戦だからね」


 ピラミッド状の樹形図を指さしながら、リオコは慣れたように説明を続ける。数字を書き込みながら私の反応を窺う。私はにんまりと笑った。中学生の同級生を中心にリオコは声を掛けているらしく、当時のクラスメートだったワタナベやリオコと同じテニス部のクワバラが既に登録をして一緒に仕事をしているらしい。ぼんやりと聞いていた私の頭に、薄らとした中学生の頃の記憶が蘇る。


 新宿三丁目の地下にある喫茶店はどうやら彼女たちのグループが頻繁に活動場所としているらしく、軽快なジャズの音楽に気にする素振り一つなく彼女は説明を続ける。話には聞いていたが、実際に自分が勧誘を受ける立場になるとどうもむず痒い気分になって気が散った。


 リオコは綺麗だった。テレビに出る芸能人やモデルと比較したら見劣りするかもしれないが、少なくとも周りからそう見られるような装いと振る舞いが彼女をとても綺麗に見せた。リオコにそう話すと、やっぱり素敵な見た目じゃないと時間を取ってくれている尚美に失礼だからね、と言った。気にしなくていいのにと私が言えば、いやいや本当に今日はありがとう、と返す。私はアイスティーを見ている。アイスティーと溶けた氷の間に薄いもやもやが揺れている。


「てかさ、友達と一緒に仕事ができるってめっちゃワクワクしない?」


 リオコは煌びやかな笑顔でそう言った。私は中学の頃の記憶を順番に辿っていって、初めて新宿を訪れたのが中学一年生だったなと、思い出した。


 小学生の頃は一人で電車に乗る機会もなかった。いつも出掛ける時は父か母が一緒だったし、それでも車で市内のデパートに行けばほとんどの用事が解決するくらいには平和で、私もそれが普通だと思っていた。


 私の通った中学校は市内の主に四つの小学校から生徒が集まる学校だった。この年齢になって新しい人間関係を上手く作れるのかと内心とても緊張していたが、幸運なことに何人かの友人とは割と早い段階で仲良くなることができた。裕子は一年生の時のクラスが一緒で、好きな音楽の話やテレビ番組の話をよくして、次第に二人でいる時間が長くなった。


 好きなものが一緒の人がいるのはやはりとても嬉しくて、同時に心強くもあった。同じような感性を持っていて、自分が肯定されたような気分になった。裕子と私はバドミントン部に入部した。運動は元々得意だったので、楽しく練習しているうちにどんどんのめり込むようにバドミントンにはまっていった。きついことよりもどちらかと言えば楽しく笑っていた記憶の方が強いのは、やはり裕子のおかげだった部分も大きいと思っている。


 裕子は幼いながらにとても可愛い子だった。目がぱっちりとしていて笑うとえくぼができた。人見知りしない性格もあって男子からも好かれていたように思う。私は裕子が友人であることをとても嬉しく思っていて、周りの生徒たちが裕子の話をしているのが耳に入るだけで何だか誇らしい気分になった。


 夏になるとバドミントン部の最初の大会があって、私と裕子も出場した。楽しい部活動ではあったがもちろん練習はちゃんとしてきた自負があった。けれど相手の学校の生徒も上手で、私も裕子もあまりいい結果ではなかった。大会は三年生の宮先輩も出場し、男子の個人戦で優勝した。宮先輩は背がとても高くて、こないだまで小学生だった私から見ると大人の男の人に見えた。三年生はその大会で引退する人が多かったが、宮先輩はその後も度々練習に来ては後輩の二年生や私たち一年生を楽しそうに教えてくれた。受験勉強の息抜きになるから、と言った宮先輩の声はとても爽やかに耳に入った。今思い返せばこの頃から、私は宮先輩のことが好きだったのだろうなと思う。


 裕子はその頃、お洒落にとても興味があるようで、化粧や可愛い洋服を買ってみたいといったことをよく話していた。裕子はとても可愛らしくて、少し厚めの唇には綺麗な口紅が似合うんだろうなと漠然と考えていた。私はまだ自分がお洒落という言葉と縁がある気さえしていなくて、汗をかくことが一番一日を充実させるように感じていた。尚美今度一緒に買い物行こうよと彼女が可愛らしくお願いするたび、うん今度ね、と笑って返していた。あの頃の私たちは子供からちょっとだけ背伸びしようとしていて、それがとても嬉しかったのだと思う。


 夏が終わる頃、私と裕子は喧嘩をすることもなく相変わらず二人一組でいる事が多かったが、バドミントンは私の方が上手になっていた。それを裕子が恨めしく思う様子は無かったし、私もそれを鼻にかけることをしているつもりはなかったが、試合で勝った後に宮先輩が私に掛けてくれる声が素直にとても嬉しかった。私と裕子が話しているところを見かけると宮先輩は、校舎内でも他の生徒が周りにいても気にせず話しかけてくれた。同じクラスの男子は女子と話すことをなにか大事のように捉えているような雰囲気があったので、それもまた彼を大人に感じさせた。バドミントン部は秋の市民大会に向けて練習していて、宮先輩もあまり練習に来ることは無くなった。それでも校舎内ですれ違った私と裕子に、大会は観に行くよと話して、それがいくつかある私のモチベーションの一つになっていた。


 万全の準備で臨んだ女子の個人戦は、準決勝と三位決定戦で敗れて四位になった。私はというと、正直にいって非常に満足していた。もちろん悔しいという気持ちもあったけれど、それ以上に達成感や満足感が大きく、とても誇らしい気持ちになった。裕子は一回戦で隣の中学校の選手を倒し二回戦へ進出した。次の試合で負けてしまったけれど、彼女も精いっぱいの力を出せたようで充実した表情をしていた。宮先輩は私と裕子それぞれにねぎらいの言葉を掛けてくれて、私はそれにとても喜んだ。宮先輩からデートに誘われた、と裕子から聞いたのは、その後少ししてからのことだった。


 宮先輩は裕子に、都内で買い物やカフェでケーキを食べたりしないかと話したらしい。裕子は私が宮先輩のことが好きなことを知っていた様子で、その返答に悩んでいた。私はそのことを裕子に相談したことはなかったが、裕子は私の親友で、私の考えていることと同じことを考えているのかもしれないと思った。私は宮先輩のことが好きだったけれど、もしも裕子も宮先輩のことが好きなんだとしたら、私はその気持ちを妨げたくはないと思った。


「私、別に宮先輩のことはどうとも思ってないよ」


 本当に? と返す裕子は少し涙目になっていたが、私はにかっと笑って返した。この時に私は少し大人になれた気がした。けれど時間が経てばやっぱり、自分の気持ちが自分の胸をぎゅうぎゅうと締め付けるように苦しくなって、家に帰ってから夜遅くまで泣いた。宮先輩は裕子を新宿三丁目駅の近くにあるカフェに誘った。裕子と宮先輩がデートをする日曜日、私は初めて一人で電車に乗って新宿三丁目に向かった。どうしても駅に向かう足を止められず、慣れない手つきで切符を買ってしまった。決して邪魔がしたい訳ではなかったし、裕子の不幸を願っていた訳でもない。けれどこの時の感情は、大人になった今振り返って見ても名前が付けられない。強いて言うなら、青春の一片だったのだと言いたいと思う。


 新宿三丁目駅は私たちの住む八雲市とは似ても似つかない大都会で、改札を出てもまだ立派な地下のホームが空に蓋をしていた。私は恐ろしいところに来てしまったように思った。これまで私が大人だと思っていたものはなんてちっぽけで、小さな世界だったんだろうなと思った。改札を抜けると子供用の切符はピッという音を鳴らして、それもまたとても恥ずかしく感じた。呆けたまま駅構内を歩くうちに、宮先輩と待ち合わせをしている裕子の姿を遠目に見つけてしまった。裕子はとても可愛くて、可能な限りその可愛らしさが宮先輩に伝わるよう背伸びをした格好をしている。カーディガンにひらりとしたスカートで、とても可愛い。それでもやっぱり周りを歩く、都会の大人は、とても綺麗で、かっこよくて、可愛くて、私たちはまだまだ子供なんだなと思った。


 悪いこととは分かっていながらもつい、私は離れた位置で裕子を見続けてしまった。やがて宮先輩が裕子のところにやって来て、二人は合流した。宮先輩は少しダボっとしたセーターを着ている。先輩の私服姿もやはり、都会の大人の人と比べると、まるっきり子供のようだった。


「てかさ、友達と一緒に仕事ができるってめっちゃワクワクしない?」


 リオコはまだ熱心に説明を続けて、私は溶けていくアイスティーの氷を眺めていた。リオコは登録用紙のような紙を取り出して、私に差し出す。紹介者の欄に「菊池 理央子」の文字があって、ああ、そんな漢字だったなとぼんやりと思った。リオコはとても綺麗で、如何にも都会の人という素敵なファッションをしている。お洒落な人とはこういう人を言うんだと今になって改めて実感した。


 私はくすぐったいような気分になって笑った。


 それをどう感じ取ったのか、リオコも笑っていた。温かい紅茶にすればよかったと私は思った。


「ごめんなさい」


 私は次の日、裕子に謝った。本当は宮先輩のことが諦めきれなくて、こっそり新宿三丁目まで行ってしまった事。そして二人が合流するところを見ていた事。でもやっぱり、裕子が幸せそうだったから、やっと気持ちが吹っ切れたこと。それを一気に伝えてもう一度、ごめんと言って謝った。すると裕子は、にんまりと、思い出し笑いをするように、肩を震わせながら笑って言った。


「気づいたよ私も、尚美がいたの」
「えっ」
「だって尚美、服めちゃダサかったもん。目に留まっちゃったよ」


 私は呆気に取られて、その言葉に怒るより前に、つい笑ってしまった。やはり彼女と私は感性が似ているのかもしれない、と思った。


「いや、裕子もけっこうダサかったよ、田舎者感出てたし!」
 つい言い返すと、裕子も笑いながら怒った。


「いやいや、尚美には負けてなかったよ!」
「てゆうか宮先輩もまあまあダサかったよね!」
「それは思った!」


 その後結局裕子と宮先輩は付き合って、そのうちに別れてしまった。裕子とは中学を卒業するまで仲良く一緒にいて、その間にできた私の彼氏の愚痴だったり、部活の顧問の悪口だったり、テスト前の勉強だったり、そして一緒に、新宿に買い物に行ったりした。


 あれだけ一緒に時間を過ごしたというのに、私たちもすっかり大人になったということなのだろうか。


 カフェを出るとすぐにリオコからメッセージが届いた。今日は時間を取ってくれてありがとう! 登録の件、前向きに検討してもらえると嬉しいな! そういうような内容が書いてあった。リオコとのメッセージのやりとりは数えるほどしかない。新宿駅の煌びやかな街はゆっくりと夜に向かっていて、ビルの灯かりが煌々と輝いている。華やかな化粧品の店舗の前を通過する。広告の中で外国人の美人なモデルが、真っ赤な口紅をつけてこちらを見ていた。


 なんだか久しぶりに友人に会いたくなった。

 スマートフォンをもう一度見直す。メッセージの履歴のずっと下の方に、思い出されたように彼女の名前を見つけた。


 鞄の中で貰った書類がしわくちゃになる。皴の入った顔で笑う裕子の姿を想像して、私はまたこそばゆくなる。

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