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センペルビウム・ライラックタイム

 パスケースを改札機に当てると、ぴっ、という音が鳴った。思わず私は左手をきゅっと握る。大丈夫。私は二つの重厚な機械の隙間を縫うように通り抜けていく。ホームへ向かうエスカレーターはどうしようもないほどゆっくりと上昇していくので、もはや私に逃げ場はなかった。ほんの短い間、目を閉じてみる。静かとは言えない駅の持つ独特な音の響きが、私の体の底まで揺らしているようだ。


 まもなく、一番線に、各駅停車、京王八王子行きが参ります。


 駅のホームにこだまするアナウンス。いつでも変わらないその声のトーンは時に、私を冷ややかに笑うようだった。大丈夫。地鳴りのように揺れ始める一番線のホームで私は、お気に入りだったワンピースの裾をしっかりと握っている。やがて駅のホームに流れ込んできた各駅停車は、ゆったりとした動きで私の前に停車した。まるで私になんて目もくれない様に、まるで大あくびでもするかのように、扉は大きく開く。私はその扉の前で、出来限りの力を込めて、大きく目を見開いた。


 ああ、でもやっぱり今日も、だめだ。


 電車は静かに口を閉じると、私の知らないどこか遠くへ向かって走り出す。音もなく去って行く電車は今日も、私ひとりを置いてけぼりにする。花柄のワンピースの左側の裾には、私の指が深く皴を作っている。


 今日もまた、乗れなかった。

「でもあんたたち、結構長く付き合ってたもんね。それはショックも大きいよねえ。時間が解決する問題もあるけどさ、どちらかというと時間が深刻にする問題の方がこの世界にはありふれていると思うのよあたしは。受験だって部活だって恋愛だって、長いこと一つの目標に向かって頑張り続けるわけでしょ? そういう強い思いを持っている時間が長ければ長いほど、終わった時の胸の張り裂ける感じはどんどん鋭くなっていくわけなんだよ。そりゃああたしは大した大学には受からなかったし部活も弱小でしたけどね。でもあんたはほら、何でもかんでも真面目に頑張っちゃうタイプでしょ? だからほら、たまにはさ、こういう気楽でいられる時間を自分に作ってあげなって、ね? あんたは昔からそういうさ、息を抜くっていうか、肩の力を抜くのが苦手なんだから。知ってる? 肩の力を抜くにはね、膝の力を抜くのが良いってイチローが言ってたの。あのイチローが言うんだから間違いないと思っちゃうよね。体は繋がっているんだから、そういうちょっと遠いところから自分自身に優しくしてあげなきゃいけないの。ね、そうでしょ? だからいつまでもそんなところに突っ立ってないでさ、こっちにおいでよ。美味しい物でも食べに行こうか。山盛りのパンケーキでも食べに行こうよ。ね、たまにはさ?」

 

 

 ようちゃんは私のアパートまで車で迎えにきてくれた。あまり可愛くない色のホンダのN-BOXは彼女の親の車で、助手席のアームレストには家族旅行のお土産と思われる木製の小さな人形が吊り下げられていた。吉祥寺まで行って私とようちゃんは一緒に山盛りのパンケーキを食べた。甘い生クリームとこれでもかと乗ったイチゴが私の口とお腹の中をぐるぐると駆け回るようだった。ようちゃんは自分から誘ったくせにすぐに甘ったるさでフォークを動かすのを止めた。私の口に運ばれたパンケーキは思ったよりもしっとりしていて、気を抜いてしまえば嚙み切るどころか、こちらが息を詰まらせてしまうような弾力を持っている。お腹いっぱい食べて、沢山眠って、そうやって朝を迎えたらまたあたしと遊びに行こう。ようちゃんは甘い笑みでそう言う。帰りの車はまたようちゃんが運転してくれて、それは私が車の免許を持っていないからでもこれが彼女の親の車だからという理由でもなく、彼女が私に対してくれている無償の好意によるものだと気がついて私は胸を詰まらせてしまいそうだった。

 

 無気力に家に帰った私はいつの間にか眠って、そしていつの間にか目を覚ました。ようちゃんの言うほどにすっきりとした朝は迎えられていないけれど、私はぼさぼさの髪をブラシで透いてみる。日は登っているのにまだ一日を始める力が漲らないのを私は私のせいにする。コップに一杯の水を注いだ。艶やかに揺れるグラスの縁を指でなぞってしまいたくなって、止める。今日もまた私は、もう似合いもしなくなったワンピースに身を包む。

 

 自転車で大学に行くのは思ったよりも大変だった。普段は気にすることも知ることもなかった惜しげもない上り坂によって、息つく暇もなく私の足は硬直していく。たまには運動をした方が良いと言うのは体に良いということか精神的に良いと言うことか。前者であればこの足と肺の痛みを健康と呼ぶには些か疑問に思ったし、後者であれば余計なお世話だと言わざるを得なかった。電車に乗れなくなって初めてわかる、電車の便利さと私の体力の無さ。ゆっくりと進む自転車に跨る、重い重い私の体。地鳴りのように心拍数を上げて、私は今か今かと立ち止まってしまいそうになる自分に追いつかれない様に必死にペダルをこいだ。

 

 大学の大講義室は既に何名かの学生が座っている。前の方に座る学生たちは参考書やルーズリーフを丁寧に広げており、後ろの扉の近くに座る男子学生たちはスマートフォンでゲームをしながらおしゃべりをする。どっちつかずの私は真ん中より少しだけ後ろ寄りに座ったので、話し始めた教授の言葉に混じって男子学生の声が聞こえてくる。

 

 

「レヴィストロースはその仮説で何が言いたかったかって言うと、私たちの感情は自然に生まれてくるものではなくって、社会構造が先にあるんだ、って事なんですよね。社会構造が先にあって、感情はそれに従った役割演技に過ぎないと彼は言い切っているんです」

「それであいつが今日試験範囲発表されるっていうからさ、わざわざ一限出てやったんだよ。出席も取らねえのにわざわざ朝から出るとかほんとに勘弁しろって思うけどさ、でもやっぱ単位は落としてらんねえから出席するわけよ。そしたらマジでどうなったと思う?」

「これは結果として、人間は自分を中心にものを考えるっていうか、例えば、『我思う故に我あり』っていう言葉も結局、自分を中心に物事を考えているけれど、それに対して、実は自分というものも、周りにある構造というものに縛られている、構造に規定されているって言っているんですよね」

「試験範囲なんか発表されなかったわけよ、マジでふざけやがってあいつ次会ったらぶっ殺してやるわ」

 

 

 私はリュックサックからペットボトルのほうじ茶を取り出して、ぐいと一口飲んだ。飲み込んだ小麦色の液体は私の胸につっかえた物を決してどこかに押し流してくれたりはしなかった。永遠にも思える九十分を、一人うずくまって耐え忍ぶ。大丈夫、ではないかもしれないと少しだけ思う。

 

 お昼休みにサンドウィッチを食べていたら、ようちゃんから連絡が来た。半熟たまごがたっぷりと入ったサンドウィッチとレタスとチーズとハムが入ったサンドウィッチで迷って、たまごの方から先に噛みついた時だった。買いたいものがあるからちょっと付き合ってよ。またあたしの助手席に乗せてあげるからさ。いつの間にか私のたまごのサンドウィッチは跡形もなくなっていて、仕方がないからもう一つにも被りついた。眠って起きればお腹が減るし、お腹が満たされれば眠ってしまう。どんな感情に縛られたって、私の体は偉く傲慢だ。お腹いっぱいになればそれだけで少し幸福になった気がして、その少し後で息を止めたくなるほど空しくなる。今日は三限で終わりでしょ? じゃあその後で迎えに行くわ。

 ようちゃんの運転は上手でもないし、下手でもなかった。左折をするときに思い切りよくハンドルを切るところが何となく彼女らしいなと思った。車は自転車よりも早い速度で私の体を私の知っている世界から切り離していく。フロントガラス越しに見る世界はいつもよりも色鮮やかに見えた。

 

 アウトレットモールには洋服屋さんや靴屋さんや雑貨屋さんや、その他にも多くの人に愛されるようなお店が並ぶ。ようちゃんに手を引かれながら幾つかの店でようちゃんの服を一緒に選んだ。

 

 

「実は今度の週末に、久しぶりに土方先輩に会うんだ。覚えてる? そうそう、応援団長とかやっててすごく目立ってた男バスの土方先輩。ほら、あたしも女バスのキャプテンだったから少し関わりはあってさ、でもなんか久しぶりに連絡くれてね、最近何やってんのかとか、大学どこに行ったんだとか。そういうことを気に掛けて貰えるとさ、何だかほんの数年前のことなのに懐かしくなっちゃってさ、あたしも先輩のことさ、ほら、ちょっといいなって思ってたからさ、変に舞い上がっちゃったりして。そしたら今度ご飯でも行こうよなんて言ってくれてさ。ええまじかーって思ってびっくりしたんだけど、でもやっぱり嬉しくて。人から何かに誘ってもらえるのって、どうしてこうも自分が認められたような気持ちになるんだろうね」

 

 

 ようちゃんは普段からボーイッシュなデニムやパーカーを着ているから、私はようちゃんに秋色のワンピースを勧めた。ようちゃんはそのワンピースを偉く気に入ってくれたようにそれを肩に当てながら鏡の前でくるくる回ってみせた。ようちゃんは笑うときゅっと目元が細くなって、唇の間から元気な歯が見える。私の横で笑うようちゃんの姿を見ているうちに、いつの間にか胸の奥につっかえていたものも綺麗さっぱり無くなったように感じた。やっぱりようちゃんは凄いなと思う。

 

 買い物に付き合ってくれたお礼、という事で今度はようちゃんが私に欲しいものは無いか尋ねる。私は服も靴も雑貨も特に欲しいものは無かったので正直にそう言うと、ようちゃんはじゃあこんなのはどうよ? と私を小さな花屋さんに引っ張っていった。私には少し色鮮やかすぎる花の束に圧倒されて、私は頭の中でお気に入りだったワンピースの花柄を思い出す。明るくて可愛らしくて元気で、そういう花柄のワンピースを似合っているよと言ったあいつはもういないのに。

 

 そうやって俯く私にようちゃんが手渡したのは、意外にも地味な色の小さな鉢に入った多肉植物だった。

 

 

「寒さに強くて乾燥にも強いから水やりも時々で大丈夫みたいだし、今は緑色だけれど冬になると綺麗な赤紫色になるんだってさ。センペルビウム・ライラックタイム。どうかなこれ、今日のお礼に、とか言って」

 

 

 私はこくりと頷いた。ようちゃんはまたししっと笑った。

 ベッドに潜り込んで、真っ暗な部屋で息を止めるように眠ろうとする。誰の音もならないこの部屋。月灯かりからも星空からも隔てられた夜。いつだって涙は出ない。本当に泣いてしまいたいときにはいつだって、乾いたままの心が私の中のあらゆる力を奪っていく。眠る力もなく、起き上がる気力も奪われる。乾燥した唇の皮を噛んで剥がす。小さな痛みだけがほんの少しだけ、大切なものに思える。スマートフォンを開いて、返事が返ってくることもなくなったLINEの画面を開く。『分かった、今までありがとう』一言だけの言葉がいつまでも私を長い夜に縛り付けては、別れた男女という社会構造が行き場のない悲しみを私に押し付けているようだった。か細い力を振り絞って布団から抜け出した私はぼさぼさになった髪のまま、コップ一杯の水を入れた。ひんやりと冷たさがガラス越しに私の手に触れる。私は一口だけ水を口に含むと、残りは全て小さな鉢に入ったセンペルビウムにあげた。乾燥した土はじんわりと水を吸い込むと、濃い茶色の土から夜の香りが舞い上がった気がした。私の喉を通った水も、いつか遠い未来で良いから何かを芽吹かせて欲しいと思う。でもそれは傲慢かもしれない。我儘かもしれない。弱さなのかもしれない。

 

 もはやパスケースを持ち運ぶことすらなくなって、私は今日も自転車に跨って学校へ向かう。線路沿いの通学路は晴れやかで、少しだけ風が冷たい季節になった。電車が私の左側を追い抜いていく。電車はこんなにも早くどこかへ向かうことが出来る。そんな当たり前のことにすら今の今まで気が付かなかった。涼しいと感じていたのが懐かしいほどに、私はいつの間にか息を切らせながら自転車を漕ぐ。

 

 講義の内容は相変わらずで、私がお昼に食べるサンドウィッチも相変わらずの味だった。スマートフォンでゲームをする学生は単位のために講義に参加して、教授の語る構造主義はより具体性を増してゆく。私はもうどんな服を着れば良いかも分からなくなって、季節はやがて冬を迎えようとしている。

 

 

「それで土方先輩と久しぶりに会ったんだけど、やっぱりなんかすごいお洒落になっててさ。元からほら、背も高かったし顔もね、結構かっこよかったけど、それでもなんか更に垢抜けたと言いますか、大人っぽくなったと言いますか、ちょっとそういうかっこよさを持っていたのよね。先輩も車を持ってて、それはそれは素敵な車だったんだ。ヘッドライトなんてぎらぎらした目みたいな感じで光っちゃってさ。先輩が運転してくれる車の助手席にあたしが座ったんだ。シートもすごいフカフカでさ、香水か芳香剤か分からないけど、すごくすっきりした香りがするんだ。先輩の運転は凄く上手で、あたしはなんか柄にもなく緊張しちゃったんだけど、そしたら先輩がラジオでお笑い芸人の番組を流し始めてさ、なんか馬鹿らしいくらい面白かったからあたしも先輩もめっちゃ笑っちゃってさ。だからなんか、それまでのびしっとした感じの雰囲気は全部そのお笑い芸人に持ってかれちゃったんだけどさ、でもそういう先輩の優しいところが、ああ好きだな、って思ったよ。

 

ああでも別に、あたしも恋に盲目って訳でもあるまいし? ちゃんと自分で地に足を付けていたいっていうか、せめて舞い上がっている自分に対して、今自分は変なテンションになっちゃってるよ、みたいなそういうツッコミはちゃんと入れておくことにしているんだ。だって感情は先走っちゃうけどさ、それで周りが見えなくなっちゃうのはなんか、大事なものを見逃してしまっているみたいな、ちょっと損している気分になっちゃうんだよね。だからまた一緒にご飯でも食べに行かない? 火鍋が美味しいって噂の中華料理屋があってさ、一回行ってみたいなって思ってた所なんだ。でもそういうお店には土方先輩とじゃなくて、あたしはあんたと行きたいと思っているよ。なんでだろうね? あたしはあんたと一緒にご飯を食べてるのが好きなのかもしれない。あんたを助手席に乗せて、あたしが運転席に座って、そういう方がしっくりくる気がしてるんだよね。なんてそんなこと、先輩の前では言わないけどさ」

 

 

 相変わらず電車に乗れない私はまだ、相変わらず返事の来ないLINEの画面を開いている。『分かった、今までありがとう』言葉を並べるのはこんなにも簡単なのに、ぽっかりと空いた穴はいつまでも塞がることはない。ようちゃんの笑う表情も、つまらない講義の内容も、たっぷりのたまごサンドウィッチも、夜の匂いがするセンペルビウムも、その穴を塞いでくれたりはしなかった。こちらから何かを送れば彼はまだ何か私との繋がりを感じてくれるだろうか。淡い期待を抱いてはそれを丸めて屑箱に捨てた。別れた男女の社会構造はきっと何千年も前から変わらないだろうに、どうして人は少しも強くなれないのだろうか。センペルビウムは今日も不器用な緑色をしていて、私は今日もそれに水をあげた。季節はいつの間にか冬を待つばかりだった。

「や、ちょっとだけ久々。ごめんごめん、ちょっと一緒に飲んでくれやしませんかい?」

 

 

 ようちゃんが私のアパートを訪れたのはクリスマスも終わった冬の日の夜で、私はもうほとんど気力の無い一日を終わらせようとしていたところだった。といっても私の気力なんてかき集めても二十二時には消えて無くなりそうだったから、今の時刻は二十一時だった。ようちゃんはいつものボーイッシュな恰好ではなくて、ワンピースとちょっと大人っぽい、でもとても可愛いメイクをしていた。くるんと上がった睫毛を見て、彼女は今日、もしかしたら土方先輩と会っていたのかもしれないと私は思った。ようちゃんにそのままそう聞いてみたら本当にそうだった。だけど、そしたらなぜここに? そう言ったらようちゃんは笑った。いつものように元気な表情、とはかけ離れた顔で。

 

 

「結論から言いますと、土方先輩とは付き合えなかったんですよねえ。それはあたしが彼に見合う人間ではなかったと言いますか、敵わぬ恋ということでもありますけれど、でもあたしは本当に先輩のことが好きだったんだ。先輩のことがとても好きで、先輩の優しさに触れてしまいたいと思っちゃうくらいには、あたしは先輩のことを素敵な人に思っていたんだよ。先輩の声を聞くと胸の奥のところがとてもあったかい気持ちになって、先輩が笑うとあたしの頬は上手く力が入らなくなってしまう。先輩もあたしに凄く優しくしてくれて、手を繋いで、キスをして。そうやって心と体の距離を少しずつ近づけていって、だからあたしはこの人といつまでも一緒にいたいなって思って、この人と一緒にいられる限りはあたしもこの人のことを心から大切に想いたいと思って、その気持ちは本当に嘘ではなかったんだよ。だから今日、初めて先輩とセックスをしようと思ったんだけど、駄目だったんだ」

 

 私はようちゃんに、無理に話さなくてもいいよと言った。それは私の本心で、私に言葉を紡ぐことでようちゃんが自分を傷つけることをしないで欲しいと心から思っていた。ようちゃんは瞳をうるうるとさせながら、それでも決して泣き出してしまうような事はなかった。それはとても痛々しくて、変われるものなら私が変わってあげたいと思ってしまうような表情だった。

 

 

「先輩、ずっと優しいんだよ。あたしが断った後もずっと優しいんだよ。しなくても良いし、傍にいるのが幸せだなんて歯の浮くようなことを言っちゃってさ、あたしのことが好きだって言ってくれてさ、こんなに幸せで嬉しいことは今までの人生振り返ってももしかしたら一番かもしれないってくらい、あたしは本当に嬉しかったんだけどさ、どうしてあたしには普通の女の子みたいな幸せが、こんなに苦しいんだろうね」

 

 

 ようちゃんはやがてお酒を右手に握りしめながら眠ってしまった。私は散らかった部屋を片付けながらようちゃんを私のベッドに寝かせてあげる。ようちゃんは横になって私に背を向けると、やがて私に気づかれない様に溜めていた涙を頬に伝わせ始めた。ようちゃんはとても優しくて、とても可愛らしくて、そしてとても繊細な女の子だと私は思う。でもそれは私と彼女の関係が彼女をそう定義付けているだけで、本当の彼女の心を私は理解できていないのかもしれないと思う。人の心は人に理解することが出来るのだろうか。人の幸せが自分の幸せとは限らないのに、人の苦しみは自分の苦しみのように感じてしまうのはどうしてだろう。私のスマートフォンには決して返事は返って来ない。結ばれなかった恋と途切れた愛は、寄る辺の無い夜にさまよい続ける。

 

 その夜、久しぶりにあいつの夢を見た。あいつは自分勝手な奴で、自分の夢に正直な奴で、自分のやることや選んだことにいつも自信を持とうとして、自分のことは自分で決めようとしていて、自分が生きた証を残そうとしていて、自分の気持ちに嘘を吐きたくないと思っている、そういう男だった。夢の中であいつと私はどこか知らない街を二人で手を繋ぎながら歩いていて、私の左手にはバニラと抹茶が半々になったソフトクリームが握られていて、まだ綺麗な形のそれからあいつの右手に握られたスプーンが一口分を掬うと私の方に差し出して、私はいつも一口目をくれるあいつのことが好きだったことを思い出した。アイスクリームは甘くて苦くて冷たくて、あいつの手はまだ夢心地のように温かくて。あいつと過ごした時間は私の中で確かに心の奥で思い出になっていて、そしてきっと夜明けとともにこの夢は覚めて、私はどこか遠いところへ向かわなければならないんだと、漠然とそう思った。

「あ、すごいじゃん」
 
 
 カーテンを開けたら朝日がぶっきらぼうに差し込んできて、ようちゃんと私は人生で最も新しい朝を迎える。ようちゃんはすっきりした顔で私の方を向きながら、小さな鉢に入ったセンペルビウムを持ち上げて笑う。
 
 
「綺麗な赤紫色になったねえ」
 
 
 みっちゃんがお世話していたおかげだね、とようちゃんは笑う。私はなんだか不思議な気持ちになって、笑いながら泣いてしまった。ようちゃんはどうして泣いているのかなんて聞いたりしないし、どうして笑っているのかなんて尋ねたりしない。小さな部屋の中にある感情だけを汲み取って、私とようちゃんは新しい朝を迎える。
 
 ようちゃんは電車で帰るというので駅まで一緒に歩いた。ようちゃんは昨日着ていたワンピースをまた着て歩いていたけれど、私はデニムにパーカー。なんだかいつもの二人の服を取り替えっこしたみたいで可笑しかった。ようちゃんはぐっと両腕を上に伸ばして背伸びをしたので、私も同じように背伸びする。吹き抜ける風は冷たさよりも爽やかさが勝っている。やがて駅に着いたところでようちゃんはパスケースを取り出した。
 
 
「そういえば、まだ乗れないの?」
「どうだろう、最近は乗ろうともしてなかったからね」
「試してみる?」
 
 
 いつもならようちゃんはそんなことを言わないだろうし、私も頷いたりしないだろうと思う。いつものようちゃんなら絶対に私を傷つけてしまわない様に取り繕ってくれるし、私もそんな誘いに乗ろうとも思わないはずだ。だけど今日はなぜだろう。不器用な自分も、笑い飛ばせるような気がした。
 
 切符を入れて改札を抜けたところで、私はようちゃんがどこに住んでいるのか知らないことに気が付いた。いつも迎えに来てもらってばっかりで、私は自分の世界しか見れていなかったのかもしれない。どこへ向かうのか分からない、けれども必ずどこかへ辿り着く電車に私は乗れるだろうか。ようちゃんの一段後ろにくっついて、ホームへ向かうエスカレーターに乗る。ゆっくりと上昇していくエスカレーターは朝日を浴びれば無機質な機械でしかなくなった気がした。
 
 ほんの短い間、目を閉じてみる。静かとは言えない駅の持つ独特な音の響きは、ようちゃんの口ずさむよく分からない鼻歌にかき消されて消えてゆく。
 
 まもなく、一番線に、各駅停車、京王八王子行きが参ります。
 
 駅のホームにこだまするアナウンス。いつでも変わらないその声のトーンは、私とようちゃんのことを冷やかすように通り抜けていったけれど、ようちゃんは全然気にも留めない様に電車を待つ。大丈夫。私はデニムの端を強く握った。ゆっくりと駅のホームは震動し、電車がその姿を現そうとしている。
 
 
「泊めてくれてありがとうね」
「ううん、私こそいつもありがとう」
 
 
 なんか照れるなあ、とようちゃんは笑う。地鳴りのような音は段々と大きくなって、私とようちゃんに近づいてくる。電車はまもなくホームに到達しようとしている。
 
 
「こちらこそだよ」
 
 
 ようちゃんはししっと笑ってそう言った。ホームに滑り込んでくる各駅停車はゆったりとした足取りで私たちの前に停車した。銀色の車体に映えた朝日がキラキラと眩しく輝いた。ようちゃんのワンピースは風に揺れてゆっくりと色めきを放っていて、私のデニムは少しだけ私に歩き出す力を与えてくれている。扉が閉まるのとほとんど同時に、私の重い体は一瞬だけ、けれども確かに、黄色い線を飛び越えた。


Inspired by 羊文学『夜を越えて』


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