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仕事を休んで美術館に行った話

千葉県佐倉市に位置するDIC川村記念美術館は、その名前からもわかる通り、印刷用インクなどで知られるDIC株式会社によって運営されている美術館だ。創業者の川村喜十郎をはじめとする社長三代の収集物を中心に、充実した近現代の西洋美術作品が展示されている。

千葉県の佐倉市というと都内からは少し離れているように聞こえるけれど、
東京駅からの直通バスを使えば1時間半ほどの場所にある。
https://kawamura-museum.dic.co.jp/

これまで全国の美術館を色々回ってきたけれど、ここは一番のお気に入りだ。これまで何度も訪れていたものの、いつも誰かと一緒だった。ここで人と過ごすのは確かに楽しくて、いろんな思い出があるけれども、頭の片隅にいつも何かを見過ごしているような気持ちがあって、一人でも来てみたいと思っていた。今回たまたま天気の良い日に休みが取れて、かねてからの思いを実行してみたので、そのことについて書こうと思う。


東京駅八重洲口

早朝の東京駅八重洲口は、首都の玄関口にふさわしい様相だった。人々が足早に行き交い、各々の職場へと向かう。普段だったら自分も同じように職場へと向かうはずだったけれど、この日は少し違った。有給を取っていたからだ。
仕事へ向かう人々を横目に見ながら、これから小旅行しようという自分に、どこか気恥ずかしさに似た感情が湧き上がった。なんだか学生の頃を思い出した。


高速バス乗り場


そんな気恥ずかしさ、あるいは罪悪感にも似た気持ちを落ち着けるために、近くのコーヒーショップで大きめのカフェラテを買い、バスを待った。少し前から寒波が来ていて、吐く息が白かったけれど、気持ちの高揚も手伝って飲んでいるうちに少し汗をかいてしまった。

バスは高速に乗り、ほどなくして東京を抜け、飲み物も無くなりかけた頃、ふと携帯を見ると職場の同僚から進行中案件についてメールが来ていた。僕は「事前に伝えている通り有給をとっているので、そちらで処理してほしい」と返信した。

美術館に到着してバスを降りると、東京よりも少し暖かい気がした。空気がとても澄んでいて、遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。そのまま美術館に入るのはなんだかもったいない気がしたので、庭園を少し散策することにした。誰もいない並木道を歩いているうちに去年の花見を思い出す。

冷たい身体が徐々に温まっていく
遠くから鳥の鳴き声が聞こえる



庭園の一角には桜並木があって、季節になると一面の花を咲かせるが、花見客はそれほどおらず、ちょっとした穴場になっている。街の中心から少し離れていて、敷地全体がどこか世間から距離を置いたような雰囲気であることが理由の一つかもしれない。

働き始めの頃、同期の人たちとこの庭園でお花見をした時、上京したての高揚もあったのだろう、これまでに見たどの桜よりも鮮やかな印象を受けた。

電灯がぽつぽつと点き始めた帰り際、目に見えるものの色がどんどん失われていく中で、それに抗うように花びらを散らしながら咲き乱れる桜を見て、背筋に寒さが走ったこともよく覚えている。

それからコロナで中断されたりもしたけれど、ほとんど毎年、同じ人たちでお花見をしている。以前はつけていなかったはずの結婚指輪に気づいたりして、それぞれの節目の出来事などを話したりする。

美術館との出会い

学生の頃、マーク・ロスコの研究者が抽象表現主義について解説する文学部の集中講義があった。僕は理系学部だったので単位とは関係がなかったけれど、もぐりで講義を受けて、その中で後に述べる「ロスコ・ルーム」と、それを擁するDIC川村記念美術館の存在を知った。

講義はおそらく学部3、4回生向けのものだったと思う、今ほど美術の知識がなかったのも相まって、さっぱりわからなかった。何がわからないのかもわからなかった。積分を知らない文系の人がルベーグ積分の講義を受けるようなものだろうか。

Mark Rothko (1903-1970)

マーク・ロスコは、第二次世界大戦後アメリカで始まった抽象表現主義を代表する画家。大きなキャンバスに深みのある色彩が配置された抽象画でよく知られている。

Untitled (White, Pink and Mustard)
© Kate Rothko-Prizel & Christopher Rothko / VG Bild-Kunst, Bonn 2020


ロスコは自身の作品を展示する空間にこだわりがあって、照明や空間のレイアウトに細心の注意を払っていた。特に自身の作品が他のアーティストと並べて展示されることを嫌がっていたそうだ。

展示空間が自分の作品だけで満たされることを望んでいたマーク・ロスコ。彼が望んだ空間は世界で4ヶ所ある。ヒューストンのロスコ・チャペル、ロンドンのテート・モダン、ワシントンDCのフィリップス・コレクション、そして千葉県佐倉市のDIC川村記念美術館。

ロスコ・ルーム

美術館に入り、今回の目的の一つである「ロスコ・ルーム」へ向かう。ここは前述の通り、ロスコの意向に沿って専用に設計された部屋だ。〈シーグラム壁画〉シリーズの7枚を展示している。仄暗い七角形の部屋の壁に、背丈よりも少し大きいくらいの絵が飾られている。

ロスコ・ルーム

https://kawamura-museum.dic.co.jp/architecture/rothko-room/
(画像は上記ページより引用)

人によってはそこまで興味を持てなかったり、ひょっとすると気分が落ち込んでしまうかもしれないけれど、自分の思考と感情を省みることができて、心が落ち着く。

日頃の生活でうわずった心がすっと下に落ちて、体と心の重心がお腹の下に落ち着く。何度も来ていたけれど、今回は人を待たせる心配がないので飽きるまでいようと思った。

途中何度か、目の焦点が合わずぼうっとして、絵が動いて見えたり、絵の表面が泡だったりした。普段の生活ではやらないような視覚の使い方をしたのだろう。一時間ほどいたような気がするが、その感覚も曖昧になっていたので正確にはわからない。

茶席

https://kawamura-museum.dic.co.jp/tearoom/

館内に戻ると、注意していないと見逃してしまうくらいの控えめな案内があった。案内の通り進んでいくと、外の景色を眺められる和室に通される。赤い世界から戻ってきて、色彩の感覚を取り戻すために入った。

運よく他に人はおらず、池の水面に映る陽の光が、水の流れと共にきらきら流れ星みたいに光っていた。

ロスコ・ルームで染み付いた、薄暗い赤茶以外の色彩感覚を思い出す。世界には色が溢れているという当然の事実を思い出す。自覚はなかったけれど、実は軽い放心状態だったのかも知れない。「2種類のお茶と2種類のお菓子が選べます」という店員さんの言葉が、なぜかよく理解できず、聞き返してしまった。

最近は仕事終わりにジムで運動をするのが習慣になっている。運動後シャワーを浴びて、休憩スペースでスポーツドリンクを飲みながら、ジムに面した幹線道路を流れる光の流れをぼんやり眺めている。

きらきら光る水面を眺めて、ふと、同じ感覚になっていることに気づいた。

一服を終えて展示室に戻ると何処からともなく微かにオルゴールが聞こえてきた。初めは館内BGMかなと思ったけれど、音の出どころを慎重に探すと、一つの作品にたどり着く。

アメリカの美術家、ジョゼフ・コーネルの作品だった。アッサンブラージュという立体造形物の寄せ集め技法を用いたアーティスト。自ら拾い集めたがらくた小物を木箱におさめ、小さな世界をつくる「箱のアーティスト」。

A Parrot for Juan Gris, 1953-54. Courtesy of Quicksilver/The Joseph and Robert Cornell Memorial Foundation/Vaga, NY/Dacs.
Joseph Cornell (1903 - 1972)

前面ガラスの小さな木箱に楽譜が収められたその作品には、実はオルゴールが内蔵されており、微かな音色を発していた。視覚だけでなく、聴覚も研ぎ澄まされていることに気づく。


木漏れ日の部屋

https://kawamura-museum.dic.co.jp/architecture/gallery200/

ロスコ・ルームの真上に位置する白を基調にしたこの部屋は、両サイドの大きな窓ガラスから柔らかな光が差していて、ロスコ・ルームとはうって変わって明るい雰囲気。ひらひら動く木の影と柔らかな抽象絵画。

ロスコ・ルームがひたすら内省を促すなら、この部屋は外界へ開かれた関係を促す。今回は、抽象表現主義の分派としても知られるカラーフィールドの画家、ジュールズ・オリツキーの白を基調とした抽象絵画が飾られていた。日差しの変化を木漏れ日から感じつつ、空間と作品との豊かな調和を感じる。

ジュールズ・オリツキー、前回の企画展「カラーフィールド 色の海を泳ぐ」で初めて知ってからお気に入りの画家になった。

この美術館は、自然光の取り入れ方にものすごく気を遣ってる。そういったことに今回の訪問で初めて気づく。

遅めの昼食

毎回友達と庭園でピクニックをするから、付属のレストランで食事したのはこれまであんまりなかった。今回はせっかくなのでコースで頼んだ。前菜がすごく凝っていた。周りの席のマダムたちも「来て良かった」と口々に言っていた。僕もそう思った。「日差しが差してきたから、カーテンを閉めましょうか」と聞かれたけれど、気持ちが良かったので、そのままにしてもらった。

にんじんと生姜のポタージュ(このあと家でも真似して作った)
ロマン主義的な光のコントラストが強い写真

当たり前の話かもしれないけれど、人はコミュニケーションの際、自身の性質や価値観について「自分はこういう人です」のような直接的な言葉をもちいて伝え合うことはない。例えば「真面目で誠実な人間です」のように自分を紹介するのは不自然だ。そんなことを言っている人がいたら可笑しいし、場合によってはすごく怪しい。

最近観た映画の感想とかを聞くことで、その人の価値観やものの感じ方を知ることができる。自分が感想を喋るときには、自分でも気づかない自分の側面に気付いたりもする。感想を話し合い深掘りすることで、深くその人や自分を知ることができる。

話し合うための媒体というのが、人によっては野球などのスポーツだったり、話題のニュースだったりする。僕が自分から雑談として伝えるのは、本や映画や展覧会が中心だけれど、究極、媒体はなんでも良いのかもしれない。目の前の人のことが知れたり、自分のことが伝えられたらなんでも良い。媒体そのもの(例えば野球とか)に興味がなくても、その人に興味があれば会話は楽しい。

本や映画そのものも当然好きだが、目の前の人のことを知ったり、自分のことを伝えること自体が好きなのだろうと思う。

それでもやはり、本や映画や展示について話し合うのは、慣れもあってやりやすい。自分の興味あることについて話し合える友人の存在は、とてもありがたいものだと思う。




陽も落ちてきたのでそろそろ帰る

そんなことを考えながら美術館を後にする。明日からも同じように生活が続く。



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