2日サボったら文字書きできなくなったのでリハビリ

みなさま、新年あけましておめでとうございます。世間の流れに絆されて、年末年始休んでしまって文字が書けなくなりました。本投稿はリハビリのために、だらだら文字を書く練習として色々吐き出しますのよ。

平素より、私の興味関心ごとはリアルというものの設定にあります。何を根拠としてリアルはリアルたらしめられているのか。結論だけ先取りするならば、それは共同幻想的な〈現実〉と、実感を伴う体感的〈現実〉とで複合的に構成されている。というのが、私の現実観なわけですけれども、これじゃよくわかんないね。

まず、共同幻想的な〈現実〉とやらについて。これは超簡単な話で、世間一般に「現実」と呼ばれるものの枠組みがあるよねってことです。木や家や公園があるのは現実ですし、法律や国家やルールなんかも、実体は無いけれど現実ですよね。水が100度で湧くのも現実ですし、危ないことをしたら怪我をするかもしれないのも現実です。
乱暴にまとめて言えば、「それはそうでしょ」って直観出来ることがらは、共同幻想としての〈現実〉なんじゃないかと思っています。

いやいや、「共同幻想」ってなんだよと思われるかもしれませんが、先に挙げた例は人間の認知によって枠付けられています。小屋と家の違いとは? そもそも、なんでこれが家たる条件を満たしているのか? 公園の定義とは? お湯ってなんですか? (例えば、英語圏には「お湯」を一発で表す単語が無いですよね)

これらは3歳児の問いかけめいていますが、これをまともに答えられる大人はどれぐらいいるでしょうか(あるいは、真面目に取り扱う質問だとさえ思わないかもしれません)。
「そういうものなの。」これで説明できる範囲のことがらは、本質の追求とは関係なく、でも現実的です。でもやっぱり本質的なことがらを追求されないわけですから、共同幻想的でもあります。これを「共同幻想的な現実」と便宜上(私の語彙力ではこれが限界なので)呼んでいます。

つぎは、実感を伴う体感的〈現実〉です。こんな仰々しい言い方しなくても、例えば「自分にとっての現実」とか平易な表現に置き換えることもできそうです。一応、先の共同幻想と対置する意味で、限定的な言い方をしています。

例えば、病気の時を考えてみます。うお~! つらい! ひどい悪寒! 頭痛! 頭も回らないし吐き気もする! でも体温は36度8分。
このとき、「36度8分なら大丈夫じゃんw」とか言われたらとてもつらいと思います。この、「36度8分なら大丈夫じゃんw」を共同幻想的現実とするなら、「うお~! つらい! ひどい悪寒! 頭痛! 頭も回らないし吐き気もする!」という主観の部分、これが「体感的現実」です。

体感的現実を枠付けるものは、神経的な作用ということになります。感じ取られたものをどのように処理するか。これはヒトとしての個体差、環境、経験なんかに裏付けされて出力されます。もちろん、体感を画一的に取り出すことはできません。(例えば、マッチョマンでも鬱になる人は居ます)

ここまでで、2つに分節した現実観というものがなんとか伝わっていて欲しいと思うものの、単純に文章の伝わりやすさとは別に、そもそもこの2つがキレイに裁断できないという問題もあります。それが、「複合的に構成されている」と言った部分です。

例えば、「体感的な現実」によって「共同幻想的な現実」の最大公約数は変わってきます。とある人・コミュニティにとって存在するはずのものが、別の人・コミュニティには存在しないことになっている。または、意味付けが極端に変わっている。なんてこと、想像可能なんじゃないでしょうか。

レッド・ピル/ブルー・ピルの比喩を持ち出すまでもなく、人の現実観はどこまでも個人的でしか無く、そのくせ「真実」であってほしく、公約数を持つ他人と共有可能です。

問題は、公約数を持たない他人の現実も、その人にとっての「現実」に他ならないのに、一方的に判決を言い渡したがる欲求が散見されることです。

いわば「真実」という、「現実」の多様性を捨象する特権的立場の奪い合い。これが、観測範囲ではよう起こっとる。
忘れがちですが、山の上ではお湯は90度で沸騰します。相対性理論も日々テコ入れが入ります。「現実」はどこまで追求しても、「真実」にはなりえません。

とはいえ、人間誰しもバイアスからは逃れられませんし、このバイアスが直観にかかわる場合、それを主観的な現実と認めていくことは避けられません。

ことに、人の生活の足場は思っているよりも脆く、頼りないものです。そして、そこに拘泥する必然性もまた、ありません。

とはいえ、人は未来に酔っていないと生きていけません。生きるとは、未来に希望を仮構して、あるいは今現在の自分への思索を欠いて、エンディングを先延ばしにすることです。
(たとえば、死刑囚が突然、恩赦釈放を決定されて自由の身になった場合、昨日と同じ深刻さで自分の生きる意味を問うたり自死について考えたりできるとは思えませんよね)

この場合、逐一「現実」の点検は行わないわけです。「現実」の点検は、常に自死や実存(生きる意味とは? という問い)に関わるときに行われます。

それでも大事なのは、自分はすべてを知悉することはできない。という謙虚さなのではないかと、思うわけです。

どっとはらい。

















真に受けんなアホ

あ~~~~~~~~~~~~寿司食いてぇ

とっぴんぱらりのぷう