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 小さな頃から私には痣がありました、左の頬から顎にかけて、青黒い色のカブトムシを潰したような痣があったのです。
 醜い痣でした。小さな子供のときから人は私を見るときにまず痣を見ていました。話しかけるときは私の顔ではなく、私の顔の痣に目が流れていました。
 私の顔の目鼻立ちを覚えている人はいないのではないかと思います。みんな私の痣を見ていました。
 そんなことはない、それは気のせいなのだ、気にし過ぎだ、人は君が思うほど君の痣のことを気にしていない。そういうことを言う大人はいましたし、同級生にもそういうことを言う人はいました。先生と呼ばれるいろんなお医者様もだいたい似たようなことを言いました。言いながらも彼らは私の痣を必要以上に見ていました。
 醜い痣でした。カブトムシを潰したようで、ツノや砕けた甲、脚の先の爪のようなものも見て取れます。色は青黒く万年筆のインクを腐らせたかのよう。そして風合いはヒキガエルの肌に似ていました。痣の部分は皮膚が弱く、日の光や強い風に当たるだけで腫れて膿を流しました。それはカエルが毒腺から毒を流すようでした。
 絆創膏や包帯、スカーフのようなもので覆い隠そうとしたことも何度もあります。そのたびに腫れて膿が流れ、痒くてたまらなくなりました。炎症を起こし、その熱は全身に周りました。痣を隠すと私は高熱を出すのです。
 手術やレーザーで灼くようなことも難しいと診断されました。この痣を傷付けることで、私も身体にどれだけ負担がかかるか判らない。ただの痣なのですから、放っておくべきでしょうと言われました。
 私の身体の主導権は痣が握っているようなものでした。私は孤独な子供であり、孤独な大人になりました。私の本質は痣なのですから、痣が友人や知己を持つわけがないのです。
 年頃になり、身体も大人になりました。しかし痣はそのままでした。せめて私は深い襟の服や広いつばの帽子を被りましたが、それくらいでは私の醜い痣は隠し切れないのです。
 ある晩、浅い眠りの中で奇妙な夢を見ました。自分の家と家の周囲が奇妙な物理法則に支配されており、現実の世界では考えられないような奇妙なことをしないと、家が崩れ、自分は死んでしまうのですが、その奇妙なことは奇妙すぎてやったそばから忘れていくのです。覚えていられないのです。唐突に目が醒め、ぬるぬるした汗を全身にかいていました。恐しいところは何もないのに私はその夢の恐しさに震えていました。
 ふと気がかりになり洗面所に行って鏡を見ました。頬から痣がなくなっていました。何度も目をこらしてもあの醜い痣はありません。私の左頬はこれまで見たことがない子供のようなつるりとした滑らかさと美しさでした。痣は消えてしまったのでした。
 いや、すぐ気付きました。痣は消えたのではなく、場所を移していました。左頬から顎のあたりに広がっていたのですが、それが左の首筋から鎖骨の端までに移動しているのです。そんなことがあるのでしょうか。しかし、その青黒いヒキガエルのようなものは私の痣です。ただし形も少し変ってつぶれたカブトムシのようではなく、羽をむしられたツバメのように見えました。
 どういうことであろうか。私は混乱しました。痣は皮膚の一部です。皮膚の表面を滑って移動するようなものではないはず。移動したり形を変えたりすることはありえない。では、この私の今の状況は何であろうか?
 しかし、鏡を見ているうちに喜びが涌いてくるのを感じました。首に痣はありますが、私の顔にはもう醜いアレがなくなりました。痣のない私の顔、想像したりしたことはありますが、それを実際に目にすることの驚き。
 私は何と美しいのでしょうか。これまで会った中で一番の美人です。大きな瞳。官能的な輪郭線。濃いピンクの唇も、すんなりと可愛らしい鼻も、それぞれが美しく、それは奇跡的なバランスで私の顔の中で輝いているのです。私は私に見惚れました。
 しばらくしてまた眠気が襲ってきたので、ベッドに戻ることにしました。素晴しい夢でした。私は目覚めて洗面台の前に立ったことを夢であると思っていました。だってこんなに素晴らしいことが現実のはずはないのです。
 しかし、また眠り、目覚めて痣の位置が変っていることを確かめると、これは確かに現実に起きたことなのだと認めざる得ませんでした。
 私は友人もなく、家族からも離れておりましたので、このことを報告する人も相談する相手もいません。家族は私に親切でしたが、思いがけず家の中に紛れ込んできたカエルか何かのように遠巻きに目線を合わさずに扱い、たまに目が合ってしまうと、抑え切れない嫌悪感を抱いてしまうことが見て取れました。
 私はそのとき大学生でしたが、ゼミのような少人数のクラスはなく、いつも大教室の片隅に一人でいましたので、言葉を交わす顔見知りすらいませんでした。サークル活動などしているはずもありません。病院には行ってみましたが、痣が移動したことなど信じてはもらえませんでした。生まれたときから診てもらっていた実家近くの病院に行ってみようかとも思いましたが、それで何が変わるとも思えず、そのままにしておきました。
 私は痣が見えにくくなったという幸せを秘かに噛み締めておりました。顔に痣があったときには、人は私の痣をまじまじと見詰めたり、あからさまに目を逸らしたりしました。痣は頬から首筋に移り、そのようなことは減りましたが、しかし私の醜い痣が人に起こさせる不快感は変わりませんでした。
 勇気を出して大学の同級生に話しかけてみたものの、チラリと覗けた私の痣を見たときの彼女の顔を知ると、やはり友人はいらないと思いました。最初の昂揚感は徐々に薄れ、また私は私の痣とともに生きていくだけでした。
 そして、また数ヶ月が経ち、気掛りな夢から目を醒まし、全身にぬるぬるした汗に塗れ、また私は痣が位置を移したことを発見しました。痣は首筋から胸のほうに、左の乳房の上に被さるような場所に移っていました。私の乳房を掴む両生類のてのひらのようにも見えました。私は男を知りません。醜い痣の女を抱きたい男などいないでしょう。痣が服の下に完全に隠れるようになったとしても、セックスするとなればそれは晒されるわけですから、とても恋人を望む気持ちにはなりません。そもそも私にとっては男も女も私を嫌悪の目で見下すだけの壁でしかありません。
 それからは数ヶ月、数週おきにも痣の位置は変っていきました。痣は皮膚の上に貼り付いているのではなく、皮膚の一部、身体の深くに入り込んでいるものに見えますのに不思議です。痣は全身を這い回りました。奇妙なことに顔や腕などには動くことはなく、服の下の見えない部分を移動していくのみでした。痣は私の身体のそこらかしこを弄るようにも思えました。乳房や腹、お尻。女性の部分にも痣は動きました。
 痣の移った部分には僅かな痺れを感じます。他人に肌を触れられたことのない私は、その感蝕を想像することもできませんが、痣に触れられることと、誰かに触れられることとは、どれだけ同じでどれだけ違っているのでしょうか?
 痣は青黒くぬめり、指で触れれば膿を出し、発熱します。形は移動のたびに変っていきましたが、カエルを思わせる風合いで、てのひらのようにも、横顔のようにも見えます。痣の出ている場所に触れるとほのかに湿り、甘いような痺れがあります。自分ではない、他の誰かの何かが私の身体に貼り付いているのだ。どうしてもそう思えてなりません。
 この痣は私ではありません。それにも関わらず、私の有り様を決めてきたのはこの痣なのです。私は私とこの奇怪な痣、怪物めいた他者の切れ端を連れて、この先も生きていくのでしょうか。
 それならそれで構わないと思うのです。私は一人であり、他者としての痣、秘かに私を愛撫しているこの痣と一緒にこの先も生きていくのです。だからといって私は二人ではなく、私と人一人分に満たない、理解もできない嫌悪の対象である欠片を連れて行くだけのことですが。


(記: 2021-05-11)

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