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【創作大賞2024応募作 恋愛小説部門】青が満ちる 第12話

【第1話】  【前話】

ピンポーン

昼間に鳴り響く玄関のチャイム。私は思わずびくっとしてしまった。
(こんな時間に何だっけ……?)
普段鳴らない時間帯のチャイムは、妙に私を怯えさせる。宅配便?友達?それとも……?
いろいろ頭に思い浮かべて警戒しながら、インターホンを取ると、
「ヒナコ?開けて……」
弱々しい蒼くんの声が聞こえた。

「ど、どうしたの?すぐ開けるから、ちょっと待ってて!」
私は慌てて玄関に走り、勢いよくドアを開けた。
そこには真夏にもかかわらず長袖のシャツやセーターを着こんだ蒼くんが、玄関の壁にもたれかかりながら立っていた。
「どうしたの?体調悪いの?」
私の質問に、コクンと頷く。声を出して答えるのは辛い様子だ。

億劫そうにゆっくりと壁から体を離した。
歩こうと足を前に出した時、バランスを崩して私の方に体が傾く。
「ごめ……」
「いいよ、支えてあげるから、体重預けて」
平均身長はある私だけど、肩を貸すには蒼くんとは身長差がありすぎる。
それに、スラッとしていて細身の蒼くんでも、全体重を預けられてしまうと重さで身動きが取れなくなる。
それでもフラフラしている蒼くんを一人で歩かせるわけにはいかなくて、私は全力で蒼くんの寝室まで連れて行き、ベッドに寝かせた。

「ねぇ……」
すでに体力の限界なのか、はぁはぁ息をしながら蒼くんが話しかけてきた。
「慎ちゃんには連絡しないでね。……心配しちゃうから」

その言葉に私はふっと笑った。どんなに体がしんどくても、考えることはいつでも慎一くんのことだけ、という蒼くんが可愛く思えて仕方が無い。
もともと仕事中の慎一くんに連絡をするつもりは無かったけれど、私が「分かった」と言うと、心から安心したような表情を浮かべて微笑んだ。

「それより、熱測ろうか」
「熱は無いよ。ただちょっと疲れただけ。少し寝れば治ると思うから」
「そう?」
蒼くんはそう言っているけれど、やはり気になったので、さりげなく額に手を当ててみる。
少し熱い気もするけれど、微熱程度だから大丈夫なのだろう。「ね?」と蒼くんが私を見てくる。
「もし熱が上がってきたりしたら、絶対に言ってね」
「ありがと、ヒナコ」
「ん。悪いけど、着替えは自分でしてくれる?私、何か飲み物持ってくるね。何か飲みたい物ある?」
「ん-、今はいいや。とりあえず、ちょっと寝るね」
「うん、分かった。何かあったら呼んでね」
部屋を出る時に、一瞬蒼くんの顔が見えた。
上着を脱ごうとしているその表情はどこか寂しそうで、一人にしておくのがかわいそうになってしまった。私はドアの前で立ち止まる。
「蒼くん、やっぱり私付いて……」
言いながら振り向くと、もうベッドに入って寝息を立てている。その寝顔は少し苦しそうで、眉間に皺が寄っている。

そういえば、最近数か月の蒼くんは毎日遅くまで仕事をしていた。
日にちが変わる前に帰って来たことは極わずかしかなく、それなのに時々朝早い日もあり、相当疲れが溜まっていたのだろう。
(アイドルって大変なんだね……)

私は普段憎まれ口を叩いたり調子の良いことばかり言ったりして、元気いっぱいおどけている蒼くんを思い出して胸が痛くなった。
はしゃいでいても、きっと抱えているものはたくさんあるのだろう。
それを一切見せずに明るく振舞っているのだと思うと、なんだか意地らしくなった。
深いため息を一つついて、私はそっと部屋を出た。

寝ている蒼くんを起こしてはいけないと思い、私はリビングで静かに過ごしていた。テレビの音も気になるかもしれないからすぐに消して、久しぶりに本を読むことにした。
結婚前に好きでよく読んでいた作家の本を部屋から引っ張り出してきて、リビングのソファに座る。
いつものように目次を開き、10個のサブタイトルとページの下半分にところどころ描かれているイラストを目で追った後、ページをめくり「プロローグ」を読み始めた。

ところが、文字に目を落としても読み進められない。蒼くんのことが気になって、集中して物語の世界に入っていけないのだった。
熱があるわけでもないし、少し休めば回復すると分かってはいるけれど、どうしても気になってしまう。
私は迷った結果、蒼くんの様子を見に行くことにした。

さっきは蒼くんを運ぶのに必死だったからまったく気にならなかったけれど、思えば彼らの寝室に入るのは引っ越しの時と掃除の時以外では初めてだった。
今更ながら緊張してしまう。
「失礼しまーす……」
小声でそう言いながら、部屋のドアを開ける。
蒼くんはぐっすりと眠っている。
けれど心なしか顔が上気しているように見えて、再び額に手を当ててみる。
(あれ……?)
さっきより熱が上がっていた。
私は急いでリビングに向かい、氷水とタオルを準備して部屋に戻った。眠っている蒼くんを起こさないように、そっと額の上にタオルを載せる。
「んー……」
タオルの冷たさに、蒼くんが眉間に皺を寄せて唸る。でもすぐにまた眠りに落ちたようだ。
苦しそうな蒼くんを見てしまったら余計に心配になり、しばらく側で様子を見ることにした。
蒼くんが目覚めたら熱を測ろうと決めて、ベッドの側に椅子を運び、読んでいた本を持ち込んだ。

私はまた「プロローグ」を開き、文字を目で追い始めた。さっきとは違い、今度はすんなりと物語の世界に入っていくことができた。
やはりこういう時は蒼くんが見える場所にいた方が良いみたいだ。
本に目を落としながらも蒼くんの様子を気にしつつ、時々タオルを換える。蒼くんの整った顔が時々苦しそうに歪むたびに私は気になって仕方が無いけれど、近くにいられることで私自身は安心していた。
しばらくすると落ち着いてきたのか、蒼くんは小さな寝息とともに穏やかに眠り始めた。私はほっとした気持ちで眺める。
物音一つしない静かなこの空間は、なんだか心地良かった。

「ねぇ、ヒナコ」
いつの間に眠っていたのだろう、蒼くんの弱々しい声ではっとした。
「ごめん、私寝てたみたい……」
「うん、よく寝てた。いびきもかいてたよ」
そう言ってニヤッと笑う。憎まれ口を叩くところは熱があっても普段と変わらないらしい。私は少しムッとした。
蒼くんはゆっくり額に載せられたタオルに手を伸ばすと、
「これ、ヒナコがしてくれたの?」
と言いながら、黒目だけでこちらを見る。
「あ、うん。熱が上がってきたみたいだったから。本当は氷枕にしたかったんだけど、起こしてしまいそうで」
「そっか、ありがとう」
直前に見せた表情とはまったく違い、今度はふんわりと優しい笑みを浮かべた。思わずドキッとしてしまった自分が嫌になる。
なんだか私、蒼くんに振り回されている……。

「ねぇ、あったかいココアが飲みたい」
そうおねだりする蒼くんは布団から目だけを出して私を見つめている。その姿は本当に可愛くて、同い年の男の人とは思えないあどけなさだった。
見ているだけで自然と笑顔になってしまう。
「ヒナコ?」
「あ、うん。すぐ作ってくるからね」
甘い物が好きな蒼くんのために、砂糖を多めに入れた。
ついでに薬も飲ませなくては、と思い出し、市販の風邪薬もお盆に載せて、急いで部屋に戻る。
「お待たせ。はい、ココア。飲み終わったら薬も飲んでね」
「えぇー、嫌」
「我儘言わないの!」
「ヒナコの意地悪」
小さい子供のように駄々をこねる蒼くんはいつもよりも可愛く見えて、つい甘やかしてしまいそうになる。
「ヒナコ、ココア美味しい」
「そ、そう?よかった」
いつものアイドルスマイルとは違う少し幼い笑顔で微笑む蒼くんに、私は不覚にもときめいてしまった。
その気持ちを振り払うように、「飲み終わったら薬飲んでよ!」と、わざとぶっきらぼうに言い、薬と水の入ったグラスを押し付ける。
蒼くんは露骨に嫌そうな顔をしながら薬を飲み、「薬飲んだら疲れた」と悪態を吐きながら布団にもぐり込んだ。
それでも薬は飲んでくれたからとりあえず安心はしたけれど、まだ心配の気持ちは消えていなかったので、しばらく側についていることにした。

本当に薬で疲れたのか、突然すぅすぅと規則正しい寝息を立てながら眠りに落ちた蒼くんを見つめながら、私はぼんやりと考えていた。
国民的アイドルと言われて、毎日毎日休む間もなく分刻みのスケジュールで働いている蒼くんは、いつもどんなことを考えているのだろう。
小さい頃からの夢が叶って幸せ?
たくさんのファンに囲まれて、仕事も充実していて幸せ?
恋人もいて、その恋人と事実上結婚して一緒に暮らすこともできているから幸せ?
心の中で目の前の弱ったアイドルに問いかける。きっと蒼くんは満面の笑顔で「当たり前じゃん」と言うだろう。きっとそれは嘘じゃなく、彼の本当の気持ちだと思う。

それなのに、私はなぜか心に引っ掛かるものを感じていた。
求められた仕事をすべて完璧にこなして、いつでも求められたイメージの自分で過ごしていて、自分の意志はちゃんと通せているのだろうか。
(自分を見失ってない……?)
きっと直接そんな言葉をかけたら、蒼くんは「ちゃんと自分で考えて生きてるよ」って言うだろう。
そしてあの小悪魔スマイルでニヤリとしながら「俺をバカにすんなよ?」って言うかもしれない。
そうかと思えば、次の瞬間には「慎ちゃんが側にいてくれれば、俺は大丈夫だよ」と言いながら、優しい笑顔でふんわりと笑いかけてきたりする。
「あなたの本当の顔はどれなの?」
私はつぶやきながら、蒼くんの方に手を伸ばし汗で額に張り付いた前髪をそっと掻き上げてみた。薄い栗色のサラサラの髪が指の間をすり抜ける。
私はなんだか優しい気持ちになっていた。

陶器の人形みたいな綺麗な顔で眠る蒼くんから目が離せず、私はしばらく彼の髪を撫でていた。
「ん……」
蒼くんが小さく唸る。起こしてはいけない、と思い、私は慌てて手を引っ込めた。
その時だった。
「行かないで……」
消えそうな声とともに、蒼くんが私の手首を掴んだ。
「えっ……?」
驚いて動きが止まった。その瞬間、蒼くんがゆっくりと私を引き寄せる。そして、私の首に腕がからみ、ふわっと包まれた。

スローモーションのようだった。予想もしていなかった動きに私は抵抗することもできず、蒼くんの上に覆いかぶさったまま固まってしまった。
「ちょっと……、蒼くん?」
私は慌てて腕を振り解こうとするけれど、しっかりと巻き付けられていて、なかなか離れない。
密着しているせいで、蒼くんの付けている香水の甘い香りにふんわり包まれる。
「蒼くん?」
少し体を捻って顔を見上げると、私の戸惑いなんて気にもせずに気持ち良さそうに眠っている。巻き付けられた腕をトントンと叩いて起こそうとしても、起きる気配が無い。
(どうしよう……)
もう一度腕を叩いてみても、まるで反応が無い。
仕方が無いので、私はそのままの姿勢で腕の力が緩むのを待つことにした。
力強く回された腕は、やっぱり男の人の腕だった。可愛い顔をしていても、やっぱり蒼くんも男の人なんだな、と思った。

誰かに抱きしめられたのは久しぶりだった。
大好きだった敬介くんと別れてからは、他の人に触れられることに嫌悪感を抱くようになっていたから、誰かに抱きしめられるようなシチュエーションは避けて過ごしていた。
それなのに、今こうして蒼くんに抱きしめられていても、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。

敬介くんに抱きしめられるのが、私は大好きだった。
不安定な関係の私たちだったけれど、彼の腕の中にいる間だけは誰にも邪魔されず二人だけの世界にいられたからだ。
それが私にとっての安心できる時間だった。
敬介くんの腕と蒼くんの腕は全然違うのに、抱きしめられながら私はその感覚を思い出して、不意に涙がこぼれそうになる。

蒼くんが起きないから仕方無いの、と心の中で言い訳しながら、私は体を支える手を緩めて少しだけ体重を預けて蒼くんの腕の中にいることにした。
「ん……」
しばらくして、耳元で蒼くんの寝ぼけた声が聞こえた。それと同時に回された腕の力が少し緩む。
私はその声で我に返り、そっと蒼くんの腕を解いていく。ぴったり密着させた体から引き離し、ゆっくりと起き上がった。

(なんだったの、今の……)
私は訳が分からず、ただドキドキしていた。
一方で、後ろめたいことをしてしまったような気がしてなぜだか居心地が悪くなる。
寝ているとはいえ蒼くんの顔を見ていられなくて、私は荷物を抱えて急いで部屋を出た。

「ヒナコ、おはよ……」
キッチンで夕食の準備をしていると、突然後ろから声をかけられて、思わず飛び上がりそうになった。
「お、おはよ、蒼くん」
とにかく蒼くんから離れたくて逃げ込んだキッチン。私はとりあえず冷蔵庫の野菜を全部取り出して下準備をしていた。
目の前にあるや野菜たちを黙々と洗ったり、皮を剝いたり切ったりしていると、余計なことを考えずに済むので、今の私にはとても都合がよかった。
それなのに張本人に来られてしまっては意味が無い。もうこれ以上逃げ場がなくなってしまう。

「ヒナコ、タオルありがと」
「ん。もう熱下がった?」
「さっきよりはマシかな。でもまだちょっとだるい……」
「そっか」
胸の奥の方がドキドキしていることに気が付かないふりをしながら、私は必死に普段通りを演じていた。
少しでも長く会話をしていると、この動揺が蒼くんに伝わってしまいそうで、ヒヤヒヤしていた。できれば今はあまり一緒にいたくなかった。

「ねぇ、ヒナコ、何作ってるの?」
「へっ?」
素っ頓狂な声が出てしまった。蒼くんはすぐ横に来ていて、私の手元にある野菜たちを指差しながらニコニコしている。
きっと動揺しているのは私だけで、蒼くんは何も気にしていないのだろう。第一、抱きついてきた時だって、蒼くんは半分寝ぼけていたのだから、覚えてすらいないのかもしれない。
そう考えると、私ばっかりドキドキさせられていることがなんだか悔しくなってきて、さっきの出来事は無かったことにしようと決めた。
「あ、シチューをね、作ろうと思って。夏だけど、いいよね?シチューなら食べられそう?」
「うん、食べる。シチューはね、慎ちゃんの大好物だよ。知ってた?」
慎一くんの話をする蒼くんは、とても病人と思えないほど血色の良い顔色になっていた。熱によるものではなくて、自然な赤みが頬に差している。
そんな蒼くんを見ていると、さっき抱きしめられたことがますます不思議になってくる。
「ねぇ、あお……」
「あーっ、やっぱりだるい」
蒼くんは、頭を掻きむしりながらリビングに歩いて行き、そのままソファに倒れ込んだ。
「うーっ」と苦しそうな声を発しながら、小さく丸まるように体を抱え込んでいる。
「ちょっと、そんな格好で寝たら風邪が悪化するよ?」
私が後を追うようにしてリビングに行くと、蒼くんはすでに寝息を立てていた。その寝顔はやっぱり幼くて、いつか雑誌で見た天使を思わせるような顔だった。
「もう、しょうがないなぁ」
私は小さなため息をつきながら近くに置いてあったブランケットを手に取り、そっとその天使を包むように体に掛けた。

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