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【創作大賞2024応募作 恋愛小説部門】青が満ちる 第19話

【第1話】  【前話】

久しぶりの3人での夕食の席で、突然蒼くんが言い出した。
「俺の本音を言わせてもらうと、慎ちゃんの子供は見てみたいな」
私たちはぎょっとして、蒼くんに注目した。当の本人は素知らぬ顔で箸を口に運び続けている。
「あ、蒼くん?昨日のあの話は……」
言いかけた私を制して、蒼くんが続けた。その表情は、なぜかとてもにこやかだった。
「大好きな慎ちゃんの子供だよ?会ってみたいと思うのは当然でしょ?だから、ヒナコ、頼んだよ」
「蒼……」
「そうかもしれないけど、でも……」
「もちろん複雑な気持ちではあるけどさ、俺じゃ……」
蒼くんの声が涙を含んでいるような気がして、私は唇を噛みしめる。
好きな人が自分ではない人と子供を作るなんて、堪えられるはずがない。そんなこと、私が一番良く知っている。

少し前に沙織から敬介くんに二人目の子供ができたことを聞いた時の苦い感情が心の中に蘇り広がっていく。
「なんでヒナコが泣いてるんだよぉ」
蒼くんに言われて私は頬に伝う涙に気が付いた。そして急いで手のひらで拭い、首を振った。
「だって、蒼くんが……」
涙でぼやけた視界の中で、蒼くんが目の前のビールを一気に飲み干すのが見える。
「何言ってるんだよ。俺が慎ちゃんの子供を産んでほしいって言ってるんだよ?」
「でも……」
「本当だよ?」
「嘘だよ!恋人が別の人と子供を作るなんて嫌に決まってる!」
「ヒナコ……」
蒼くんが本音を言っていないことくらい簡単に分かる。分かりたくもないのに、苦しいくらいに分かってしまう。だって私には彼と同じ気持ちになったことがあるのだから。

蒼くんもそれ以上言い返すことができなくなったのか、目線を下に落として黙り込んだ。
それまで黙ってじっと私たちを眺めていた慎一くんが、静かに口を開いた。
「辛いのは蒼だけじゃないだろう?日菜ちゃんだって、その……嫌でしょう?」
心臓がドクンと波打つ。慎一くんに控えめに言われて初めて気が付いた。
そうだ、蒼くんだけではなく、私も覚悟をしなければいけないんだ……。そのことを自覚した途端、急に怖くなってきた。
どうしよう、体が反射的に強張ってしまう。そんな私に、慎一くんは呆れたように笑いかけると、
「自分のことは忘れてたんだ?」
そして、「蒼のことを一番に気にしてくれて、ありがとう」と言ってくれた。
私は黙ったまま、ただ首を横に振る。辛いのは慎一くんだって同じはずなのに、こうして私を気遣ってくれることがうれしくもあった。

同時に、慎一くんのことは好きだけど、どうしても無理だと思ってしまう自分がいることも事実で、そのことが申し訳なくてたまらなくなる。
「ごめんなさい……」
無意識に口から出ていた。それに対して慎一くんはふっと優しく微笑み、言った。

「大丈夫、気にしなくていいよ。いつか子供ができたら、その時はみんなで喜べるよ、きっと」

わざとそうしているのか、のんびりとした口調で話す慎一くん。私のことを慰めてくれているのだとは思う。
けれど、思わず訝し気な目を慎一くんに向けてしまう。気配で隣に座る蒼くんも体を硬くしたのが分かった。
(本気で言ってるの……?)
慎一くんの考えていることが分からなかった。
「いつか」って、何?いつか私たちはそうなるの?そうなったらいいと慎一くんは思っているの?そうしたら、……蒼くんはどうなるの?
私の中に一気に溢れ出してくる疑問たち。
(結婚は契約上のものだって言ってくれたじゃない。やっぱりそれは嘘だったの?)
現実と自分の本音と蒼くんの気持ちが押し寄せてきて、抱えきれなくなってしまいそうだった。

その時、同じことを感じていた蒼くんが低い声でつぶやいた。
「……やっぱり俺は邪魔なんでしょ?」
「えっ?」
私は弾かれたように蒼くんを見る。慎一くんも予想していなかったことを言われたような表情で蒼くんを見つめ返す。
「だから!その『いつか』が来たら、俺はここからいなくなった方がいいってことでしょ?」
何かを投げつけるような勢いで、蒼くんが慎一くんに言った。今にも涙が溢れそうな目で慎一くんを睨みつけている。
「蒼、何言って……?」
「だってそうでしょう?赤ちゃん作る時に俺は必要ないでしょ?っていうより、俺はいない方がいいでしょ?」
とうとう蒼くんの大きな目から涙がこぼれ落ちた。
蒼くんはそれをそのままにして、正面からぐっと慎一くんを睨みつけている。
慎一くんが蒼くんの涙を拭おうと手を伸ばす。ぎこちなく伸びてきたその手を、しかし蒼くんはバシッと振り払い、同時に「慎ちゃんのバカ!」と叫んだ。
慎一くんは宙に浮いたままの手を引っ込めることもなく、呆気にとられて蒼くんを見つめている。

私は二人の様子を見ているだけで、何も口を出すことができずにいた。
私自身、慎一くんの言葉に衝撃を受けていたから、どちらかと言えば慎一くんを非難する蒼くんの気持ちに近いものがあった。

「いつか、って今言ってたじゃない!いつか俺のことが邪魔になる時が来るっていうことだろ?」
「俺はそういう意味で言ったんじゃ……」
「そんなことない!慎ちゃんの本音を聞かせてよ。慎ちゃんはね、ヒナコと普通に子供を作って、普通に父親になりたいって、本当は心のどこかで思ってるんだよ!」
「蒼、違うって。俺はただ将来的に子供ができたらって漠然と言っただけだよ。蒼だって子供を見てみたいって言ってくれたよな?」
「本当は俺が慎ちゃんの側にいることが迷惑なんじゃないの?子供を産んで幸せな家庭を作るためには、俺はいない方がいいって本心では思ってるんじゃないの?」
必死に弁解する慎一くんの言葉は、蒼くんの耳にはまったく入っていないようだ。
蒼くんは強く睨みながら、噛み付くように「慎ちゃんのバカ!」と叫んだ。
と、突然体から力が抜けて椅子の背にもたれかかった。
「ずっと一緒にいようって言ってくれたじゃん。ずっと、……俺だけを愛してくれるって言ってくれたのに……」
大粒の涙をぽたぽたとこぼしながら、蒼くんがつぶやいた。
独り言のように発せられたその言葉に私は胸が痛くなった。それはあまりにもよく知っている言葉だった。

かつて、私も同じ言葉を心の中で何度もつぶやいていた。
子供の誕生日だから早く帰らないと、と言われて会社帰りにどこにも寄れなかった時も、別れましょうと言い出した私に反対しながらも結局それに従ってしまった時も、そして彼に二人目の子供ができたと沙織から聞かされた時も。
私はいつも「ずっと一緒にいようって言ってくれたのに。私だけを愛してるって言ってくれたのに」と心の中で叫んでいた。
そのたびに心がよじれるほど痛くなるのだ。届かない声とその痛みに耐えるかのように滲み出て来た涙を彼に気付かれないようにそっと拭い、私は笑顔を見せる努力をしていた。
どうせ離れなければいけないのなら、せめて彼には笑顔の私を覚えていてほしかったから。

でも蒼くんのように私も彼に「ずっと私だけを愛してくれるって言ったじゃない」と口に出して言えばよかったのだろうか。
言えば、私たちの未来は違っていたのかしら……?
私は止まらなくなってきた涙の重みに耐え切れなくなったように、下を向いて懸命に拭った。
敬介くんのことを想うと、今でも心が震える。会いたくて会いたくて仕方が無い。
それが叶わない現実に、心臓の辺りがぎゅうっと痛くなる。
蒼くんの悲痛な言葉に、否応無しにあの絶望的な気持ちが蘇ってくる。

慎一くんは両手を蒼くんの肩に置いて自分の方に向かせると、その目をじっと覗き込むようにして顔を近付けた。
「蒼、聞いて?」
「嫌だ!今は慎ちゃんの顔も見たくない!」
蒼くんはそう言い捨てて慎一くんの手から抜け出すと、乱暴に立ち上がりリビングを出て行った。
間もなくしてバタンと部屋のドアを閉める大きな音が家の中に響いた。
その残響が消えると、恐ろしいほどの静寂が私たちを包む。
残された私たちはそれぞれ感じていることは違えど、二人とも放心していた。

不思議なことに、私の頭の中には蒼くんと過去の自分がいた。
現在の自分がその問題の中心にいるというのに、周りで見ていることしかできない立場の人を考えると胸が痛くなる。
彼を救うにはどうしたら良いんだろう。私の胸の痛みもどうしたら治るのだろう……。

「ごめん、日菜ちゃん……」
しばらくして慎一くんが口を開いた。
その声で我に返った私は、慎一くんの方に目を向けた。
久しぶりに正面から見た慎一くんの顔は青ざめていて、さっきの蒼くんの態度が相当ショックだったことが窺える。
私はゆっくりと首を横に振り、恐る恐る聞いてみた。
「ねぇ、どうしてあんなこと言ったの?いつか、って何?本当に、いつか私と子供を作りたいって思ってるの?」
慎一くんは、不思議そうな顔で私を見る。
私が「いつか子供ができたら、って言ったよね?私にも慎一くんがそれを望んでるように聞こえちゃったよ?」と言うと、ようやく気が付いたようにはっとした表情になった。
「誤解だよ、俺、そんな、とんでもないことを……」
と、口を手で押さえて固まった慎一くんは、大きなため息をつきながら机に肘をついて頭を抱え込んだ。
しばらくして顔を上げた慎一くんは私の方に目を向け、またゆっくりと手元に目線を戻すと、「でも」と口を開いた。
「子供の問題は遅かれ早かれ降りかかってくるとは思ってたよ。だから仕方無いって、どこか覚悟している部分はあったんだ。俺は日菜ちゃんだったら良いし、蒼も分かってくれると思ってたんだ」
私は戸惑いながらも頷いた。
慎一くんの言っていることは決して間違っていない。子供のことは私も気になっていたことだし、いつかは覚悟を決めなければいけないのかもしれないと漠然と諦めてもいた。
同時に、それでもうまく避けられるのではないかという淡い期待も持っていた。でも……。
「それにさ、俺と日菜ちゃんが子供を作ったとしても、蒼への気持ちがなくなったわけじゃないんだから」

その答えを聞いて、私は安心と同時に慎一くんの無神経さに腹が立ってきた。
慎一くんがあまりにも明るく私との子供のことを話すから、慎一くんの気持ちが蒼くんから離れてしまったのだったらどうしよう、と勝手に心配していたのだ。
そして蒼くんが言ったように、慎一くんは普通の家庭の普通の父親を望んでいるのかと不安になっていたのだ。
慎一くんは大きなため息をつくと、「日菜ちゃんのことが嫌いだとか、そういう意味じゃないから誤解しないでほしいんだけど」と言い、もう一度ため息をついた。
「俺だって、蒼の子供が欲しいよ。蒼との子供が作れるなら作りたいよ……」
独り言のようにつぶやいた慎一くんの言葉は、そのまま蒼くんの気持ちなんだろうな、と思った。そしてそれは同時に私の気持ちでもあった。
私の胸は鈍い痛みを感じ始めている。私はそれを庇うように左手でこぶしを作って胸に置き、右手でその手を包んで握りしめた。
「日菜ちゃん?大丈夫?」
慎一くんが心配そうに私のことを覗き込む。
「慎一くん……」
私は溢れそうになる涙をこらえながら、優しい目を見つめ返す。

この人は本当に私のことを考えてくれる。
恋愛とは別の意味で私のことを愛してくれているのかもしれない。
それは私も同じで、彼のことを愛しているし特別な感情を持っている。
けれどやっぱり違うのだ。敬介くんでなければ私は駄目なのだ。
付き合っている時とまったく同じように、どうしようもなく敬介くんのことを愛している。
「私も子供は欲しいよ。自分の子供には会ってみたいもん。でもね、……やっぱりまだ無理なの。慎一くんが嫌だっていうことじゃないの、私も。でも……」
半分無意識のままに言葉が口から出ていく。
慎一くんは何度も頷き「分かってるよ」と言ってくれた。そのことに安心した私は、弱々しく笑って慎一くんを見つめ直した。

また二人の間に沈黙が流れ始めた。私は胸の前で手を握ったまま、もう一つの気がかりを口にした。
「慎一くん、私は蒼くんの気持ちがすごくよく分かるよ」
「日菜ちゃん……」
「頭では現実を理解しているつもりでも、心がついていかないことってあるんだよ。そういう時って闇の中で身動きが取れなくて、自分なんてこの世界から消えてしまえばいいのに、って思っちゃうくらい悲しいの。だから、……今は蒼くんを慰めてあげて?蒼くん、慎一くんに抱きしめてほしいと思ってるはずだよ」
「うん……」
力なく慎一くんが言い、よろよろと立ち上がった。
律儀に自分と蒼くんの椅子をテーブルの下に戻しながら、「ありがとう」と小さな声で言ってくれた。
そして、「じゃあ蒼のことを見てくるね」と微笑んで慎一くんは私の肩をポンと軽く叩いた。

私は、ふうっとため息をつきながら椅子にもたれかかった。
頭の中は空っぽだった。
蒼くんのこと、慎一くんのこと、自分自身のこと、考えることはたくさんあるはずなのに、思考回路がストップしてしまったように、何も考えられない。
喉がカラカラだったから何か飲み物を取りに行きたかったけれど、立ち上がるのも億劫でそのまま背もたれに寄り掛かるようにして目を瞑った。

「蒼がいない……」
間もなくして聞こえた慎一くんの絶望的な声にバチッと目を開けた。
動くのも億劫だったはずなのに、私は勢いよく立ち上がった。
「部屋を見に行ったらいないんだ。寝室にも蒼の部屋にも俺の部屋にも」
「い、いないって、どういうこと?」
「玄関に置いてあった靴も無いから、多分外に出て行ったんだと思う」
「蒼くんに電話はしてみたの?」
その問いに対して慎一くんは悔しそうに首を横に振り、「それがさ、携帯を部屋に置いて出たみたいで」と、蒼くんの携帯電話をテーブルに置いた。
「……俺、探しに行ってくる」
言い終わらないうちに、部屋から持ってきたジャケットを羽織り、玄関へと足が向かっている。
私はそんな慎一くんの後を追いながら、「待って」と叫んでいた。
「蒼くんのいる場所、心当たりはあるの?」
「……無い」
「闇雲に探したって駄目だよ。ある程度可能性の高そうなところを探さないと……」
「ありがと、日菜ちゃん。でも居ても立ってもいられないんだ。とりあえず家の近くとか駅の辺りを見てくる。日菜ちゃんは家にいて。蒼が戻ってきたら電話ちょうだい」
慎一くんは冷静さを失ったように立て続けに勢いよく言い立てると、騒がしく出て行った。
テーブルの上に残された蒼くんの携帯電話に目を移し、私はため息をついた。

私の頭の中ではある可能性を考えていた。もしかしたらナガレボシのメンバーの家に転がり込んでいるのかもしれない。あるいは事務所やスタジオに身を寄せているのかもしれない。
それらの場所の電話番号を知るはずもない私は、蒼くんの携帯電話から情報を得ようか迷っていた。
けれどいくらなんでもそれは失礼だと思い、私は諦めて携帯電話をテーブルの端に追い遣った。
本人から連絡が入ることだけをひたすら祈りながら、その携帯電話を見つめていた。
しばらくして、慎一くんが帰ってきた。はぁはぁと息を切らせながら「蒼は戻ってきた?」とリビングに入ってくる。
「まだ」
私がそう言うと、慎一くんは「そうだよな」とため息をついた。
「ねぇ、ナガレボシのメンバーの家に行ってるのかな。それとも事務所とか……」
「うん、それは俺も考えたんだけど、財布も持っていないからタクシーにも電車も乗れないだろうから、それは無理かなって。彼らの家がどこにあるのかは知らないけど、そこには行ってないような気がするんだ」
「でも、頼るところって彼らしかいないんじゃない?」
私がすがるようにそう言うと、慎一くんは静かに首を横に振った。
「そういう時、蒼って一人になるんだよ。昔から、辛い時も落ち込んだ時も誰にも頼らず一人で……、自分の中で解決するまで一人で耐えるんだ」
「慎一くんにも頼らずに?」
「俺には頼ってくれるようになった。でも今回はその俺が原因だから、蒼は誰にも助けを求められずに苦しんでると思う……」
苦しそうな慎一くんの声に私の胸が痛くなる。

「私も探しに行く」
「えっ?でも、もう夜だし一人じゃ危ないから家にいて」
「大丈夫。私のことより蒼くんが心配なの。お願い、行かせて」
もちろん私にも蒼くんがいる場所の検討なんてついていなかった。それでも気持ちばかりが焦ってしまう。さっきの慎一くんと同じだった。
「……分かった。ありがと、日菜ちゃん」
諦めたように微笑んでくれた慎一くんに、私は蒼くんの携帯電話を手渡した。「持ってて。蒼くんから連絡が入るかもしれないから」

マンションのエントランスを出て、私たちは二手に分かれて走り出した。
携帯電話を握りしめながら、頭の中は冷静に蒼くんがいそうな場所を推理していた。必死に考えながら走っていたからか、夜道でも全然怖いとは感じることはなかった。
私は不安に押し潰されそうになりながらも足だけは止めなかった。
必死に走り続け、気が付けば家の近くの歩道橋に来ていた。
少し前に私がこの歩道橋の上で泣いていた時に慎一くんが助けに来てくれたな、なんて思い出しながら、手すりに寄り掛かって息を整えた。
その時、もしかして、とひらめいた。と同時に私は一気にその階段を駆け上がった。

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