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【創作大賞2024応募作 恋愛小説部門】青が満ちる 第18話

【第1話】  【前話】

母親とこうして並んで料理をするのは、大人になってからは初めてだった。
私がもう結婚したということや、ここが私の新居であるということを忘れて、幼い頃の思い出が蘇る。
母親の指示通り大きさを揃えて野菜を切ったり、恐々と肉の脂身を取ったりしていた頃が懐かしい。
「だいぶ手つきが慣れてきているわね」
私が大根の皮を剥いていると、隣で母親がそう言った。
「毎日ちゃんと作っているのね。安心したわ」

その言葉に私は満足した。やっと母親に安心させることができた。
いつまでも心配をかけている子供だった私は、結婚したことで少し大人になれたのだろうか。
そう考えると、あの時結婚するという道を選んでよかったと思うことができる。

母親と楽しく料理をしていても、やっぱり気になるのは蒼くんたちのことで、「ごめん、ちょっとトイレ」と言い残して私はその場を離れた。
そしてかなりの躊躇とともに、彼らの寝室をノックしてみた。
「慎一くん?」
返事が無い。もう一度呼びかけてしばらく待っても、静かなままだ。
蒼くんと出かけたのかな、と思ってそっとドアを開けてみると、そこには気持ち良さそうに眠っている二人がいた。蒼くんはベッドにうつ伏せになって、慎一くんは蒼くんのすぐ側で彼の頭に手を置いたまま眠っていた。
安心しきったように眠る慎一くんを起こしてしまうのは申し訳ない気がしたけれど、もうしばらく「良い夫」を演じてもらわなければいけないので、そっと声をかけた。
「ん……、日菜ちゃん?ああ、ごめん。寝てた」
「うん、起こしちゃってごめんね。もうすぐごはんできるから」
「分かった、すぐ行くよ」
「……ねぇ、蒼くんはどうしよう?」
変な姿勢で寝ていた慎一くんは肩が痛むのか、首を伸ばしたり肩を回したりしている。
私の言葉にちら、と視線を蒼くんに移すと、「大丈夫、ちゃんと話しといたよ」と得意気に笑った。
「蒼は、後で食べるって。だから悪いけど、後でこっそり食べる物用意してもらえる?今はとにかく寝たいらしい。帰ってからそのまま寝てたんだって」
愛おしそうに蒼くんを眺めながら話す慎一くんを見ていると、さっき彼に感じたときめきは何だったのだろうと不思議に思えてくる。
モヤモヤしていた気持ちがスッキリと消えていくのを感じた。

「携帯はさ、電池が切れてたらしいよ。帰ってからすぐに充電すればいいのに、それをする前に寝ちゃったから、まったくメールは見てないみたい。俺が帰って来て初めてお義母さんのこと聞いたって」
昨日の夜から返信が無い蒼くんのことを慎一くんはずっと心配していた。ようやくその心配から解放されて安心したのだろう。
呆れたように慎一くんは話しているけれど、全身から安堵が滲み出ている。
「そっか、さっき初めて聞いたのなら驚いちゃうよね。蒼くんに悪いことしちゃったね」
「大丈夫、気にしなくていいよ。なんとかバレないように生活する、って意気込んでたから」
その様子が目に浮かぶようで、私は思わず笑ってしまう。

その宣言通り、蒼くんはしっかりと眠り、知ってか知らずか母親がお風呂に入ったタイミングで起き出してきて、用意していた親子丼を驚くほどのスピードで食べている。
「そんなに急いで食べなくてもいいよ。部屋に持って行ってあげるから、ゆっくり食べたら?」
「ううん、いいの。お腹空いてたからゆっくりなんて食べられない」
そう言いながら、一気にごはんを掻き込んでいる。
その姿を見ていると、やっぱり蒼くんも男の人なんだなぁ、なんて感心してしまう。一生懸命に食べる今の蒼くんは、可愛いという言葉よりも男前という言葉の方が妙にしっくりくる。

食事を終えた蒼くんが飲み物を探しに冷蔵庫を開けた時、
「お風呂、お先に」
母親がリビングに現われた。リビングのソファでテレビを見ていた慎一くんも、ダイニングテーブルを片付けていた私も、不意の出来事に驚いてしまった。もちろんキッチンにいる蒼くんも。
幸いキッチンの冷蔵庫はリビングから死角になる間取りだったので、母親からは蒼くんの姿は見えていない。
それでも私たちは妙な緊張感に包まれていた。

「お、お母さん、早かったね。ゆっくり温まった?」
私は焦ってそう言いながら、母親をソファに座らせる。
慎一くんに目を移すと、落ち着かない様子で私とキッチンの方に交互に目を遣っている。
「何か飲む?」
「じゃあ、お茶をもらえる?」
「うん、ちょっと待っててね」

私は急いでキッチンへと向かう。冷蔵庫の前では壁に張り付くように体を薄くして動けなくなっている蒼くんがいる。
私は母親に聞こえないような小さい声で話しかける。
「どうする?そっと部屋に移動する?」
「無理無理無理。そんな危険なことできないよ。ここで大人しくしとく」
そう言ってヘラッと笑うと、壁伝いにずるずるとしゃがみ込み、冷蔵庫の前で小さく体育座りをする。
私は、ごめんねの意味を込めて蒼くんの頭をポンと撫でて、急いで母親の元へ戻った。

「すっかり長い間お世話になっちゃって。ありがとうございました」
母親がそう言うと、慎一くんは見ていたテレビを消して「こちらこそ。たいしておもてなしができなくてすみませんでした」と頭を下げた。
そんな慎一くんを優しく見ていた母親は、「とんでもない。楽しかったわ」と笑った。そして、

「また遊びに来ても良いかしら?今度は孫のお世話をしに来るわ」

と、楽しみで仕方が無い、という表情で言った。

その言葉に、私たちは凍りついた。
なんとなく覚悟はしていた「孫」という言葉だけれど、ついに来たか!という感じだった。
改めてこうして口に出されると、それは想像以上に重たく伸し掛かってくる。
「孫……ねぇ……」
慎一くんの代わりに、私は嫌そうにつぶやいた。
「孫の顔、早く見てみたいわ。言わないけど、お父さんもそう思っているのよ。きっと慎一さんのご両親も待っていらっしゃると思うわ」
「はい……」
慎一くんは引きつった笑みを浮かべている。
結婚の次は孫、か。うんざりとした気持ちで、私はどうやってこの話題を逸らせるか必死に考えていた。

「ねぇ、お母さん。それより明日は何時……」
「慎一さん、あなたも日菜子も一人っ子でしょう?だからってプレッシャーをかけるわけではないけれど、やっぱり親としては孫の顔が見てみたいものなのよ」
私の努力は母親の言葉によって敢え無く負けてしまった。
がっくりとして慎一くんを盗み見ると、私以上に居心地が悪そうにしながら、「そうですね」と相槌を打っている。時々チラチラと視線をキッチンの方に向けている。
リビングからは見えないけれど、キッチンには蒼くんが隠れている。
きっとこの会話も全部聞こえているだろう。
蒼くんがどんな気持ちでいるのか想像すると、心が痛くなる。

「ねぇ、お母さん。その話はやめようよ。赤ちゃんなんてさ、自然にまかせとけば良いんだって。それに、私たちもうしばらく旅行したり遊びに行ったりして自由に生活してみたいの。赤ちゃんが産まれたら、それができなくなるじゃない?」
私は努めて明るく言ってみる。きっぱりと言い切ってみたものの、それらはすべて本当の理由ではないだけに、罪悪感も同時に押し寄せてくる。
今更ながら両親たちに大きな隠し事をしていることへの謝罪を、私は心の中でそっと言葉にした。
「それもそうだけど、日菜子だって若くないんだから、あんまりのんびりしていられる時間は無いのよ?」
「はいはい、分かってるって。いつか可愛い孫を見せてあげるから」

こんなことなら結婚なんてしなければよかった。私は投げやりな気持ちになっていた。
やっぱり結婚というのは、ただの契約じゃないんだな、と思い知らされた気がした。
本人同士の契約というよりも、家が大きく関わってくるみたいだ。こうして両親の干渉も当然のこととして受け止めなければいけないのだ。

分かっているつもりだったけれど、いざ直面すると気持ちが落ち込んでいく。
いつかは降りかかってくると思っていたこの赤ちゃんの問題は、どうやって切り抜ければ良いのだろう。私も慎一くんも、そして蒼くんも。

翌日の昼過ぎに母親を駅まで送り、ようやくこの家に日常が戻ってきた。
(最後に大きな爆弾を落としていったなぁ……)
私は昨日の夜から考え事をするたびにため息しか出てこない。
慎一くんはどう考えているのだろう?
そして蒼くんは何を思った……?
私は心ここにあらずのまま夕食の準備をしていた。

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