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【創作大賞2024応募作 恋愛小説部門】青が満ちる 第20話

【第1話】  【前話】

階段を上り切ると人の姿が目に入った。
柵にもたれかかってしゃがみ込んでいるけれど、そのシルエットには見覚えがあった。
私はゆっくりと近付き、
「蒼くん?」
その人影に私はそっと声をかけた。
自分を抱きしめるみたいに小さく丸まったその背中は、まるで今にも消えてしまいそうなくらい儚く見えた。

蒼くんはゆっくりと振り返り、声の主が私だと分かると、張り詰めていた周りの空気をふっと緩ませた。
そして蒼くんは泣き出しそうな顔で笑いかけてきた。
「ヒナコ……」
弱々しいその声に私はたまらなくなって、思わず蒼くんを抱きしめた。
膝をついて覆いかぶさるように抱きしめる私の腕を振り払うこともなく、蒼くんはされるがままになっている。
「蒼くん、無事でよかった……」
私はほっとして、全身の力が抜けていくのが分かった。
腕の中にいる蒼くんがとても弱くて小さい生き物であるかのように、愛おしささえ感じてしまう。

急いで慎一くんに連絡しなければいけないことを思い出し、右手に持った携帯電話を操作するために体を離そうとすると、「このままでいて」と腕を掴まれた。
私は戸惑いながらも小さく頷いて、腕をもう一度蒼くんの体に巻きつけた。

「やりきれないよね……」
独り言のようにひっそりとつぶやいた蒼くんに、私はかける言葉が見当たらなかった。
かつての自分と重なる彼の姿に、何かが再び鈍く胸に広がっていく。
「俺さ、どうして女に産まれなかったんだろう、って思うことがあるんだ。女だったら慎ちゃんと普通に結婚して子供も産めたのに。どれだけ愛していても、それだけは不可能なんだもんなぁ」
私の腕の中で蒼くんが自嘲気味に笑った。
こんな言い方しかできない蒼くんがいじらしくて、私は腕の力を強めた。すると「ヒナコ、苦しいよ」と聞こえてくる。

「女に産まれたって、好きな人の赤ちゃんを産めないこともあるんだよ……」

一生懸命歯を食いしばって私が言うと、蒼くんは私の腕の中ではっと息を飲み、ゆっくり顔を上げた。
「ヒナコも……?」
私を見上げる蒼くんの茶色がかった瞳が潤んでいる。「昔、ヒナコがその彼と付き合ってる時……」私はその目を見つめながらもう一度小さく頷いた。
「私も敬介くんとの赤ちゃんが欲しかったのに……」
当時も今も私が願っていたことを改めて心の中で言葉にしたら、鼻がつーんとして視界がぼやけてくる。
結婚してくれなくてもいいから、一人で育てることになってもいいから、私は敬介くんの子供が欲しかった。
敬介くんに似た子供を育てながら、敬介くんのことを永遠に想いたかった。
結ばれることはできなくても、子供という存在を手にすることで彼と愛し合っていた事実を確かなものにしたかったのだ。

「そっか……。ヒナコも辛かったんだね……」
蒼くん自身が今どうしようもないくらいの悲しみの中にいるはずなのに、彼のやわらかい声が私の心を解していくようだった。
何か言葉を返そうと思っても、胸に熱いものがつかえていて声が出てこない。
すると、しゃがみこんでいた蒼くんが私の方に向き直りふんわりと包み込んだ。
ぐずぐずに弱くなった私の心が、今にも泣き出してしまいそうになる。
泣いちゃ駄目だ、と必死に我慢をしていても、目の周りがだんだん熱くなってくる。

「ヒナコも、泣けよ。泣きたい時は我慢しないで泣けよ」
と、蒼くんが涙交じりの声で言った。
「蒼くん……?」
私が驚いて顔を上げようとすると、蒼くんはぎゅっと力を込めて抱きしめた。
私の頭を手で強く締め付けられる。その強引とも言えるような力強さに後押しされるように、私の中から涙が溢れてきた。

「ヒナコだって辛いんだろ?彼のことが忘れられないのに、慎ちゃんと子供を作らないといけないなんて。辛くないわけないよね?どうして泣くのを我慢するんだよ」
「だって……、もう彼には会えないんだもん。どんなに会いたくっても、もう会っちゃいけないんだもん」
「だからって、泣いちゃいけないわけじゃないだろ?どこかで感情を吐き出さないと、ヒナコが壊れちゃうよ。俺で良ければいつでも抱きしめてあげるから……」
私は何度も頷いた。泣いてもいい、って言い切ってくれた蒼くんの言葉がうれしくて、余計に涙が溢れてくる。

不思議と嫌悪感は無かった。
他の人に触れられるのがあんなにも嫌だったはずなのに、こうして蒼くんに抱きしめられるのは平気だった。
むしろ悲しくて不安な今は安心する。
私は蒼くんの腕の中で少しずつ心が解けていくのを感じていた。

「今日初めてヒナコの気持ちが全部理解できた気がするよ。今まではさ、慎ちゃんが結婚したって言っても一緒に暮らせてたし、あんまり実感なかったんだよね。でも子供の問題が降りかかってきたら、やっぱり本当の結婚ってこういうことなんだな、って思い知らされたような気がして……」
蒼くんは私の頭の上でゆっくりと話している。
体を伝わって直接聞こえる蒼くんの声に、私の涙はまた溢れ出しそうになる。
そんな私の様子に気付いていないのか、「一緒にいるだけで充分だって思ってたけど、そうじゃないんだね」と蒼くんも涙を流した。

「今さ、慎ちゃんと出会ってからのことをずっと思い返してたんだ。一緒に大笑いしたことも一緒に行った場所も一緒に食べた物も、全部はっきりと思い出せるんだ。俺、どんな時も大切にしてもらって幸せだったな、って、……って思ったんだ。付き合ってからは特にね。でも、慎ちゃんがお父さんになって、……家族を持つようになったら、俺は慎ちゃんから離れなきゃいけない。あの家から引っ越して、会うことも触れることもできない世界で……。そうなった時、俺はちゃんと生きていけるのかな、って。想像したら……、本当に怖くなって……。今のままでいたい、って思っちゃったんだ。赤ちゃんなんて……、できなければいいって……」
私を抱きしめる腕に力が入る。話しながら蒼くんは震えていた。
彼の想いが痛いほど伝わってきて、私は一緒になって泣いていた。

「日菜子のこと、すごく愛してる。でも、……離婚はできないよ。やっぱり子供と離れるのは……」
そう言った敬介くんの声が聞こえた気がした。
当時3歳だった子供が産まれる前、せめて4年前に出会いたかった、とどうしようもない後悔に押し潰されそうになったことを私は思い出していた。

蒼くんはしゃくりあげながら、「赤ちゃんのこと、そんな風に考えちゃってごめん」と途切れ途切れに言うけれど、私は首を横に振っていた。
「分かるよ。私も蒼くんと同じ……。子供さえいなければ、って、思っ……」
言いながら、押し寄せた胸の痛みに耐えられなくなって、蒼くんにぎゅうっとしがみついた。
蒼くんは慰めるように私の背中を撫でてくれる。

「俺、慎ちゃんと別れたくないよ。慎ちゃんがいない人生なんて、生きてても楽しくないし、俺にはまったく意味が無いよ……」
蒼くんは涙に震える声で想いを言葉に変えていく。「だからね、慎ちゃんを信じるしかないなって思った。でも……」
私はしがみついた手に力を入れて、何度も頷いた。

私たちはどれくらいの間そうしていたのだろう。二人できつく抱き合いながら、辛い想いに涙を流し続けていた。
ゆっくりと体を離すと、蒼くんの瞳は街灯の光が反射して透き通った輝きを放っていた。
「ヒナコ、ありがとう」
「ん。蒼くんはもう大丈夫?」
私が問いかけると、弱々しい微笑みを浮かべて小さく首を横に振った。「ヒナコは?」
「ヒナコは、……まだ辛い?」
私は頷く代わりに目線を下にずらした。
すると蒼くんがそっと私の頭に手を置いて、優しく微笑んだのが気配で分かった。

「そっか。それほどヒナコは良い恋をしてたんだね」

ぽうっと心の中が温かくなった。
それは信じられない言葉だった。
第三者からはもちろん、自分に対してもそんな言葉はかけてあげたことがなかった。
私は初めて救われたような気がした。
敬介くんに恋をしている何年間かの私を初めて認めてもらえたようでうれしかった。

「蒼くん……」
ありがとう、と言いたくて蒼くんを見上げると、「まぁ、慎ちゃんと俺に比べたらどうだかわからないけどね」と額を小突かれた。
いつもの調子の蒼くんに思わず笑ってしまう。

その時、私の携帯電話が鳴り始めた。
「……あ!慎一くん!」
すっかり忘れていた。私は蒼くんに画面を見せてから、急いで電話に出た。
電話の向こうの慎一くんは「よかった……」とだけ言い、あとは言葉が出てこないようだった。
「帰ろ?慎一くん、家で待ってるよ」
「うん」
私たちはそれ以降無言のまま、並んで家まで歩いた。


「慎ちゃん、ごめん……」
玄関のドアを開け、すぐそこで待ち構えていた慎一くんの姿に蒼くんは一瞬躊躇したけれど、消え入りそうなか細い声を発した。
明るい場所で改めて蒼くんの顔を見ると、泣きはらした目をしていた。
「蒼……」
「慎ちゃん、あんなこと言ってごめん。俺、自分のことしか考えてなかった……。慎ちゃんだって、ヒナコだって辛いのに。みんな自分の気持ちと違うことを受け入れなきゃいけないんだよね。なのに、俺……」

その時、慎一くんが蒼くんに近寄り、勢いよく抱きしめた。その反動で、蒼くんが少しだけよろめく。
「蒼、俺こそごめん。蒼のことが何より大切なのに、無神経に傷付けるようなこと言って……」
「ううん、慎ちゃんは悪くないよ。それより、慎ちゃんのことを一瞬でも疑っちゃってごめん。慎ちゃんがヒナコのことを好きになったんじゃないかって、俺のことが邪魔だと思ってるんじゃないかって思ったら……、自分の気持ちをコントロールできなくなっちゃって……」
これ以上ないくらいにぎゅっと強く抱きしめ合いながら涙を流す二人を見てると、私の目からも自然に涙がこぼれてきた。

「慎ちゃん、これからもずっと側にいていい?」
「当たり前だろ。……愛してるよ、蒼」
「ん……」

今ほどこの二人がうらやましくなったことはなかった。
私も愛する人にこうして抱きしめてほしかった。
敬介くんの「愛してる」という言葉で私の痛む胸を直してほしかった。
叶わない願いだと分かっていても、どうしても心がそれを求めてしまう。
(敬介くんにもこうやって想いを伝えればよかったかな……)
今、無性に会いたくて仕方が無い。止まらない涙を一生懸命に拭った。

「日菜ちゃん、ありがとう」
「ヒナコ……。ヒナコも辛いのに。ごめんね、俺ばっかり我儘言って……」
思いがけない二人の言葉に私の涙は再び流れ出し、私は言葉無く首を横に振った。
彼らの表情から伝わってくる温もりが優しくて、ほんの少しだけ心の痛みが癒される。
「ううん、蒼くんの辛さはよく分かるから……」
「日菜ちゃんだって辛いのを我慢しなくていいんだよ」
慎一くんが少しだけ腰を屈めて私の目を見つめる。
「俺だって蒼のことを忘れようとも思っていないし、蒼だってそうだ。だから日菜ちゃんだって我慢しないで」
慎一くんの優しい言葉に胸がじんわりと温かくなる。
「でも、赤ちゃん……」
私が助けを求めるように言うと、いつもと同じ、包み込むような温かい目をして私を見ていた。

慎一くんは、蒼くんと私それぞれとしっかり目を合わすと、ふうっと息を吐いてから口を開いた。
「俺、考えたことがあるんだけど、聞いてくれる?」
心配そうな目をした蒼くんは私の方を一瞬見てから、頷いた。私もそれにつられるように頷く。

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