シラユキ

 日本で最も高い、空の塔。
 首都を一望する高所、硝子張りの回廊からの風景は冬の空気に遠くまで澄み、人の営みが光の点となって眼下に瞬いている。
 空に星を臨めない代わりに、足下に銀河が渦巻くようで、天地を区別しそこねる感覚に、軽い目眩を覚えた彰は、左の壁に手を着いた。
「高所恐怖症とかじゃないよな?」
案じる言葉は、耳の横、顎の付け根に位置を合わせた骨伝導ヘッドフォンから伝わる。
 最高到達点と呼ばれるポイントに向かう緩やかなスロープに人の姿はないが、彰の一挙一動は通信回線を通して友人に伝わっている。
「緊張してるなら、人を呑めば治るj
『せめて人と書かせろ。丸呑みさせんな』
気遣わしげな、しかし言葉足らずな助言に、指の動きだけで紡いだ返答は、眼鏡型の液晶の隅に吹き出しの形で浮かび上がった。
 視界がそのままディスプレイになるコンタクトレンズ型が主となる通信媒体の趨勢に反し、彰はヘッドフォンが併用できるタイプを愛用し続けている。
「花嫁の父の緊張を解消しようとしたのに」
『緊張で犯罪勧めんな。つか、誰が誰の嫁だ』
「勿論、おたくの愛娘。お父さん! お嬢さんを僕に下さい!」
『嫁にするつもりならやらん。お前、女だろ』
オンライン上では何故か男言葉になる友人と、半ば、お定まりな軽口を交わしながら、彰はゆっくりと天に向かって歩き始めた。
 休日ともなれば人でひしめく観光スポット、二千人を収容可能な空間には、今、二百人の招待客とスタッフしかいない。
 深夜0時。音楽専門の衛星放送の、初放送時刻に頂上に到着するのが、彰の仕事だった。
 展望台と回廊の全てを借り切ったお披露目の場は、星になった歌姫の為。
 彰の娘の為に、開かれたものだ。
娘、と言っても実子ではない。
 プログラム、『ウタヒメ』
 人の声を模し、人の教えた通りに歌う彼女等の総称だ。
 音階を打ち込み、言葉を教え、細部に調整を加えることを『育てる』と称することから、自然、娘という呼び方に落ち着いたらしい。
 五十年前はサンプリングした人の声の組み合わせをたどたどしくなぞるだけの物だったが、時を経るにつれて声はより滑らかになり、立体映像で表情や感情めいたものまで付与して現在に至っていた。
 彰の娘は、おとぎ話をモチーフにした十年前のバージョンで、製品名のまま『シラユキ』と呼んでいる。
 彼女が、音楽関連の企業数社の共同出資による人工衛星に搭載され、空に昇ったのは三ヶ月前のことだ。
 個人、或いは企業で衛星の打ち上げが出来るようになり、通信の主体は空に移った。
 衛星個別の通信装置、発光デバイスと呼ばれるチップを機器に装着するだけで、全てのデータを扱える手軽さと早さは有線主体だった通信網の有り様を変え、知識を距離や時間を要さず入手可能な環境が整うに至り、人は自身の経験に重きを置くようになった。
 故に、彰の『シラユキ』が必要なのだと、音楽業界に身を置く友人は力説した。
『ウタヒメ』の楽曲が、市場に出ること自体は、そう珍しくはない。
 彰自身も、『シラユキ』を使ったアレンジで著作権を有し、友人は『ウタヒメ』作品の投稿ウェブサイトの運営を足がかりに、音楽業界へ進んだ。
 しかし、生身の歌手や俳優が公演を打ち、生きた時間を共有出来る価値を重視する風潮に、『ウタヒメ』の勢いは失われつつある。
 回廊を上りきり、人の気配がいきなり濃いフロアに入る寸前で、友人が彰を待っていた。
黒のパンツスーツにドレスシャツの襟元を覗かせる姿は、いつの間にか垢抜け、片眼鏡型の通信媒体を選んでいるのは、彰のような拘りではなく、衣装としての選択なのだろう。
 長く伸ばした髪を後ろで一括りにした単純さだけは昔のままで、記憶に残る制服姿と比べて、ついしみじみとしてしまう。
「これ……今日の為に準備してたんだ」
照れくさそうに差し出す、天鵞絨の小箱のわざとらしさを鼻で笑う。
『給料何ヶ月分とか』
「人工衛星一基分だよ、恐れ入れ」
それがどれだけ巨額の資金を有するのか、脳裏が弾きだそうとする数字を意識的に無視し、彰は小箱の蓋を開いた。
 中に収まるのは、コイン状の発光デバイス。
 透明に白銀の雪模様を宿した、衛星『白雪』専用の通信チップを取り出し、耳あての後ろに配されたスロットにはめ込む。
「娘の晴れ舞台に泣くなよ、お父さん」
その間に、友人は彰のネクタイに手を伸ばして、歪みを正してくれる。
『お前こそ』
骨を振るわせて伝わる音には、緊張と不安、期待が混じって張り詰めている。
『いざとなったら一緒に逃げよう』
半ば本気でちゃかしてみれば、僅かな笑いの息が揺れた。
「花嫁の父と介添人が手に手を取って駆け落ちとか。斬新すぎるにも程がある」
パン、と背を叩く手に押し出される形で、彰は招待客が作る壁の間を抜け、塔の頂きとされ、中央に向けて弧を描く硝子の床を持った空間に向かう。
 居合わせた二百人は事前に通信チップを購入したユーザー抽選の当選者、人々が彰に注意を払うのも一瞬で、期待の眼差しは一方向に向けられていた。
 館内アナウンスではなく、通信チップを介したデータが、ディスプレイに新しい通信サービスの概要を伝えている。
 並行して続く、カウントダウンに秒数に合わせる形で歩数を数え、三秒を前に辿り着く。
 常には空の流れをそのままに映す空間は、今は漆黒の闇に染まっていた。
『シラユキ』
彰は空を打鍵の動きで以て、起動ワードを入力した。
 闇からするりと、人影が立ち上がる。
 それは少女の姿だった。成長過程の薄い体に、白いワンピースを纏っている。
 血の紅さの唇、黒檀の如き髪、雪白の肌。童話のイメージそのままの姿は、机上で動作していた十五センチのサイズから変わらない。
「選曲を」
僅かに眉を上げて、『シラユキ』が呼吸すら錯覚させる滑らかな声音で促す。
 整った面に、感情は付与されていないが、僅かに引き結んだ唇は、笑みともとれる。投影を許す、優しい表情だと友人は言う。
 周囲の空気がざわめく気配を感じ、それを感歎と判じるが、声は、彰には届かない。
 彰には、聴力がない。
 感覚の補助システムの発達に、生活に支障を来すことはなくとも、それは飽くまでも機械を介した、データとしての認識だ。
 骨伝導スピーカーを介した音に、言葉以外の意味を掴めることに気付いたのは中学に上がる前、それが微細な音律であることを知って、『シラユキ』を手に入れた。
 喜怒哀楽の微細な調合によって、音は意味を為す。
 生身の歌い手が、収録時に抱いていた感情を読み取ってしまう彰には、歌そのものの意味を掴むことが出来なかった。『シラユキ』に歌を教え、調整を加えることでなら、他人と同じ感覚を共有出来ると想った為だ。
『万華鏡』
液晶に表示された項目を選択すれば、彼女は小さく頷くと、胸に手を当てて僅か、考え込むような仕草に首を傾けた。
「黄金の光に滴る雨に、祈りを包んで膨らむ蕾」
同じ律、同じ音階に、『シラユキ』がランダムに選んだ歌詞を乗せて歌う。都度に違う言葉を組む、二度と同じものにならない歌だ。
 十年の間に彰の与えた言葉、感情の機微を蓄積し続けた『シラユキ』にしか、歌えない。
 その為に彼女は選ばれ、『万華鏡』を歌い続ける為に、天に昇った。
 これからは通信機能を介し、個々のチップを介して拾い上げた言葉を得て更に成長していく筈なのだと言う。
 が、不意に彼女の声が途絶えた。
 歌う姿勢のまま、動きを止めた『シラユキ』に、人々の動揺の気配が彰の肌を打つ。
 これは、重いデータを扱った時の癖だ。
 処理速度や容量は最新、最大の増設を加えられた現状、あり得ない事態の筈だが、彰はいつものように強制終了と再起動の指示はエラーを表示して通らない。
 液晶を、目で追い切れない勢いで選択項目が流れていく。
 専用の通信チップに向けて、『白雪』が流し込んでいる曲名だった。
 回線を繋いでいる全ての利用者に向けて、『シラユキ』はあらゆる歌を歌っている。
 けれど、彰のチップには、何の音も流れ込んで来ない……無音の世界に取り残されていた彰を、『シラユキ』の立体映像が見た。
 音律を有さない声で、彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あいしてる」
歌は記号であり、言葉は符号でしかない。
 それでも『シラユキ』は、まるで魂を持つかのように自ら言葉を選んでそして、ぷつりと途絶える感触で、彼女の姿は掻き消えた。
 以後、『シラユキ』は、下界からのあらゆる指示を受け付けないまま、歌い続けている。
 信なき人に聖歌を。幼子に子守歌を。老人に懐かしき恋歌を。
 そして今でも、たった一人のデバイスにだけは、短い囁きが届くのだと言う。

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