羽羽木道

 晴天の初夏、逃れようのない熱に晒される市街地で、黒い程に濃い緑陰に誘われて神社の境内に足を踏み入れた。
 長い石畳は一直線に最奥の本殿までを望み、木陰を渡る風の涼やかさと水の気配に、ほ、と息を吐く。
 杉や銀杏、その他よく種類の知らない広葉樹の合間に小さな社が点在し、祖母ならその一つ一つに参りながら進むのだろうなと思いつつ、参道の手前の自動販売機で購入したスポーツドリンクを飲みながら、取り敢えず本殿へと向かう。
 土地の神様へのご挨拶は大事だと、旅先や知らない土地でも神社を見かけると必ず足を止めていた祖母に倣ったふりで、しばしの休憩と決めた。
 ここは確か、この辺りで、一番大きな神社だったと思う。
 中学生の頃、複数の友人と自転車で峠のトンネルを越えて、夜祭りに来たことがあった。
 参道に並ぶ出店と人混みに先が見えず、印象になかったが、こんなに広い場所だったのかと感心する。
 大学卒業後、地元に帰って就職した。
 事務職で入社した会社は、この夏に新規店舗を構える為、告知としてその旨の広告をポスティングすることになったのだが、経費をかけない為、外部委託を選択肢から外せば、仕事慣れしていない新人にお鉢が回るのは当然だと言えた。
 しかし、キツい。
 慣れないというのもあるが、車の入れない細い小路ばかりで、移動はほとんど徒歩、長時間車から離れることになる為、駐車出来る場所も限られてくる。
 今日は、午前中のほとんどを歩いていたなと、思い返すだけで肩が落ちる。
 集合住宅のほとんどない地域、庭を有する家ばかりで一軒ごとの距離が遠く、門から玄関口までに敷地を広く取っている家もあり、ポストを探すのも一苦労だ。
 新店舗の制服は、化繊で風通しが悪く、体温が籠もって不快だ。そもそも、空調の効いた場所で着用するもので外回りをしろとは、熱中症になれと言わんばかりの所行だ。
 それでも、こうして木陰を見つけては休憩を取り、なんとか凌いでいる。
 市、の一括りにされているが峠を一つ隔てた西と東に別れた地域は、奇妙な程に住民性が違った。
 自分が住む、城下町としての歴史を持つ西側は住民以外を疎外する傾向が強く、軍港であった東は、多様な地域から人が流れ込んできた為か、人当たりが柔らかい。
 見慣れない人間が住宅街をうろつくのだ、どんな罵声を浴びせられるかとびくびくしてはいたが、誰何の声も用を問う程度、配布チラシを断られることもほとんどなく、お疲れ様の一声があることもしばしばだった。
 東の出身である祖母が、曾祖母と折り合いが悪かった話は母からよく聞いたが、こうも違えば、なるほど、と納得する。
 歩を進めれば朱塗りの鳥居、その脇に、浅黄色の袴を身に着けた神職が、竹箒を片手に地面を掃き清めていた。
 何かで、神主と宮司は違うと読んだ覚えがあるが、その違いは咄嗟に思い出せない。
 住人なら、顧客の可能性がある。こんにちは、そうこちらから声をかけると、白髪交じりの頭をぺこりと下げて、お参りですか、と目を細めて問う。
 子供の頃に来たことがあるので懐かしくて、と、無難に話を持ち出すと小さく頷いて木立の影をざ、と掃いた。
 何気なく、その足下を見る……しかし落ち葉や枯れ草はなく、ただ白砂利をざざと左右に掃いて音を立てるばかりだ。
「お社はありませんが、付近を荒らした大蛇の尾も、お祀りしていますよ。胴は道を真っ直ぐ上った社に、頭は川に沿った奥に、それぞれに」
 問わずに語りながら目を伏せている、その足下に掃き集めるものなどないのは見えている筈だが、手を止める様子はない。
 ざざ、ざ、と風に揺れる木立に合わせて竹箒が動く。
 何とはなし、不気味な感じがした。
 頭を下げて、参道を戻る。後を追うように竹箒が地面を擦る音だけが、いつまでも響いていた。


 私は恋うておりました。
 すうと通った鼻筋に、花弁のような淡い色の唇、何より大きな眼は私を捉えても騒ぐこともなく、敬うように頭を下げるのです。
 この山は生気濃く、絶えなき水にまた清く、山の生き物もその性と合えばどこまでも大きく、そして知恵までも、得ることが出来ました。
 もちろん、人の言う、感情を手に入れることすらも。
 あの娘はよく似た面差しのもう一人と訪れては、芝を刈り、下草を毟り、私の住処の周囲をそれは丁寧に整えてくれるのです。
 私は、娘の訪れを待ち続けました。いつでも、待っておりました。
 ゆえに、あの娘に好いた男が出来、それと語らう姿に、胸が締め付けられるほどに苦しみました。
 あの男もまた、私を恐れませんでした。
 度々に、私の住処を訪れては、腹の裂けた老人や、首のない男の骸を私の鼻先に投げ入れて、呑み込む様を眺めているのです。
 男の寄越すそれらは苦く、或いは腐りかけていて、不味いのです。しかし水を穢すわけにもいかず、始末をつけざるを得ませんでした。
 息のあるまま頭から喰らってやろうかと思ったことは、一度や二度ではありませんでした。しかし男は手にした刀でその度に、私を斬りつけようとさえ、してみせました。
 私には、腹の中から裂かれるのはたまらないと、考えるだけの知恵がありましたので、いつでも身を引くしかありませんでした。
 そしてあの時、二人が水に落ちてきたとき、もがく足を捉えました。
 男のものは尾で、娘の足は口に咥えて、否、呑んで、自らのものとしたのです。
 あぁ、私は恋うておりました。
 ずっとこうしたいと望んでおりました。
 恋うた娘の体は甘く、喉にするりと滑り込むように、まるでそうする定めであったように腹に納まりました。
 娘の血と肉はこの身となり、骨は腹の中でからからと鳴るのでしょう。そうして私と一つになった娘は、池の主として、ずっとこの水辺で暮らすのです。


 自分の位置を確認するため、地図を広げる。
 住宅地図をコピーし、貼り合わせて作った不格好な地図に回ったところを書き込んで、を繰り返して区画を回って行く。
 肩掛けにした鞄のチラシがなくなれば、補充も兼ねて車に戻って移動させる。
 自転車があれば、少しは違うかも知れない。持ち歩ける量には限度があり、都度、元の場所に戻るよりは効率が良い気がする。
 大路に沿って移動し、小路を歩いて回るを繰り返し、明らかな空き地を見つけて車を止めた。
 幸運なことに、隅の広葉樹が影を落とす位置を確保出来た。
 日の高さに建物の影は短く、少し日向に置いただけで車内の暑さは堪えがたいものになる。
 外気の影響を受けやすいせいか、冷える場所では冷え切り、熱い場所ではのぼせてしまう体質に、自己管理にだけは重々気をつけなければならないのだ。
 後部座席に箱詰めにしたチラシを二百部、鞄に詰め直し、車の外に出る。
 左肩にばかりかけているせいで、肩紐が当たる部分が打ち身に似た痛みを訴えるが、チラシの量が減れば楽になる、そう自分に言い聞かせる。
 長く歩き続けているせいで、疲労の溜まった足の重さに引かれないようにだけ気をつけながら、周囲を見回すと、道の向こうに小さな鳥居が見えた。
 背の高い草が無尽蔵に生え、あまり、手入れの為されている様子はない。
 庭の敷地内に稲荷を祀る家もあり、これもその類かと玄関口を探す。鳥居の左は空き地が広がり、右隣に鍼灸院の看板を掲げた民家が建っていた。
 近所の例に漏れず、家の前に駐車スペースを設けた配置に古ぼけたポストまでが遠い。
 窓と玄関が網戸を残して開いたままになっており、在宅を伺える様子に、失礼しますと声を張って足を踏み入れれば、キャンキャンと甲高い小型犬の鳴き声に迎えられた。
 稲荷を祀る家は、犬を飼わない。
 追い出しちゃうからね、と祖母の言がふと脳裏を過ぎり、ならば彼処の社は何処のものかとそちらに目を向ければ、コンクリート塀に視線を阻まれて、完全に違う敷地になっているのだと解る。
 神社というにはあまりに小さい。
 ポストにチラシを投函する間、人の気配に騒ぐ小型犬に慣れきっているのか、家人が姿を見せる気配もない。
 仕方なく、犬にお騒がせ、と一声をかけて、街路樹の影を求めて早足に門を抜ける。
 一番大きな影にと、無意識に足を向ければ、其処は社の裏に位置していた。
 膝下程度のコンクリートブロックが行く手を阻み、其処には、案内板が掲げられている。
『蛇切伝説』
 木陰に入って引いた筈の汗が、額から頬を伝う。
 文を目が追う。
 おまつ、おしもの二人姉妹。叶わぬ恋に池に身を投げた姉、おまつが大蛇に化身した。
 周囲に仇為すとして、牛を模した火の付いたもぐさを与えられて退治された大蛇は池を溢れさせて洪水を起こし、その骸を三つに裂いた岩を蛇切と呼んだとある。
 そして別れた亡骸は、頭と、胴と、尾をそれぞれ別の場所に分けて葬り、その一つ、胴を祀るのがこの小さな社だと、ある。
 先に下の神社で、そう聞かされた場所だ。なんの偶然か。
 ぞ、と引きかけた血の気を理性が止める。
 この地域をくまなく回っているのだ、出会して当然だ。
 単調な作業に思考を使う暇がないせいか、こんな些細なことにも反応してしまう。
 そもそも、この地域……山の奥から流れる支流を束ねた河を中心に形成された人里は古く、蛇の伝説も多い。
 それこそ、これより奥の里を出身とする祖母から聞かされた寝物語も、その類が多かった。
 頭を射貫かれて退治された蛇。娘が夜な夜な大蛇と化す話。雨乞いを祈願し、蛇から竜に成ろうとして果たせなかった娘の話。
 ただ、この話だけは、聞いた覚えがない。
 こんな風に看板になっている程だ、この地域では古くからの伝承なのだろう、それを自分が知らないのが奇妙に思えた。
 がさ、と、社の奥、正確には鳥居を奥に見る入り口の付近で、枯れ色の草が揺れた。
 あれだけ鳴いていた、犬の声がしない。
 低い位置から、草を揺らす何かが徐々にこちらに近付いて来る様に、足が引ける。勝手に、逃げる。
 道の向かい、停めたばかりの車に飛び乗って、車道に出る。右に抜けようとしたが、直進してくる車に阻まれて待つ間も惜しく左折し、正面に見えた信号の示すまま、川沿いの道に入って上っていく進路を取る。
 車内は暑いと感じているのに、歯の根が合わない。
 その音に急かされるように思考をかき消され、少しでも距離を取ろうと、その道を走り続けた。


 わたしは恋を知らぬ者でした。知ろうともしない者でした。
 姉がどんな誘いにも乗らないのは家のためと思い、私もそれに倣いました。
 口さがない者の噂に晒されても、涼しい顔をしておいでなのは、女として家に従う大義を知っておいでだからだと、誇りに思ってもおりました。
 だから姉が、見知らぬ男と睦まじく身を寄せる姿を見て、裏切られたと感じてしまったのでしょう。
 もう家に戻らぬと聞いて、妬ましくも思ってしまったのです。
 姉が姿を消せば、わたしが代わりに嫁ぐのでしょう。特に姉をと望まれた家に、わたしが行ってどうなるというのでしょう。
 そしてわたしが知らない場所で、全てを捨てた姉は幸せになるというのでしょうか。

 わたしが、二人を池に落としました。

 さんざんに引き留めた後、泣きながら、納得したふりをして、誰にも言わぬと誓ってみせて、二人が安堵して背を向けたときに、体ごとぶつかって、共に落としました。
 池の斜面を転げ落ちる、二人の手足がばらばらと動いて、草紙のように抱き合ってとはいかないものなのだと思う間に、ざんぶと水飛沫を上げて二人して水に沈みました。
 そうして、浮かんできませんでした。
 どれだけ待っても、いつまでも、水底に沈んだままの姉の姿に、わたしは取り返しの付かないことをしたのだと悟りました。
 家を、わたしの信頼を捨てた姉が悪いのだと、自分に言い聞かせながら戻り、父には姉が身を投げたと、告げました。
 後は、ご承知の通りです。
 わたしは恋を知らぬままです。知ろうともせぬまま、家のために嫁ぎ、夫も子も愛せぬままに生涯を終えた、しも、というのがわたしの名です。


 行き止まり、の看板を見つけて、逃げ込むように木陰の下に車を停めた。
 目に痛い程の太陽光の下から、暗がりに入り込んだためか緑の残光が視界を遮り、ハンドルに右のこめかみを預けてもたれかかり、目が慣れるまで待つ。
 二車線の道路は脈絡なく砂利道に繋がり、緩い傾斜の上にコンクリートの設備が見える。浄水場と、看板にはあり、道の両脇には狭い水田が並んでいた。
 人家は疎らだが絶えることはなく、山の奥に入り込んでも、褐色のスレート屋根や、陽炎に揺れる黒い屋根瓦がほど近くに見えた。
 植わったばかりの稲が青く、細い葉を水の流れに揺らしている。土手の雑草も短く刈り込まれて、確かに人の手の入る場所だということが、意味もなく安心を呼んだ。
 何処からか、子供の笑い声が重なって聞こえた。明るく楽しげな声に気を引かれてそちらに目を向け……そこに、神社があることに気が付く。
 今度こそ、血の気が引いた。
 神社の名前はこの位置からは見えない、だが、確信がある。
 川沿いに、上った先に、頭がある。
 ここからも、離れるべきだという本能の警告に、エンジンをかけようとするが、ボタンで始動させる自分の車と違い、キーを回してエンジンをかける社用車は、手が震えて上手く動かない。
 焦る視界の隅に何かが動いた。
 人だ。
 否、人のような、ものだ。
 何故ならそれは、確かに進んでいるのに上体は全く揺れていない。両手を体の脇にぴったりとつけ、腿をすりあわせるような、動きで前にするすると進む、女の裸身。白い乳房まで露わにしたその首から上は、存在しない。
 この場から、ただ逃げたかった。
 人の声のする方へ、助けを求めようとドアに手をかけたが、開かない。ロックが開かない。
 インナーハンドルの側にあるべきロックが見あたらずに、いたずらにガチャガチャと鳴らすだけに止まる。
 ベタリ、と、硝子に何かが貼り付く音がして、しかしそちらに目を向ける勇気は持てずに、頭を抱えて身を縮める。
 ぺた、ぺたと。手が探るように車の周囲を巡っている。そうか、頭がないから見えないのか。
 音に耳をそばだてながら、早く行ってくれと、祈る。
 しばらくして。
 周囲を巡る、音は途絶えた。
 安堵してみれば、ドアのロックは窓の脇にあるのだと、思い出せた……しかし車外に出る気はしない、このまま、逃げてしまえればと、乾く口中に何度も唾を飲み込もうとして、失敗しながら、意を決して、しかしそそろそろと、目を上げる。
 正面には、あの奇っ怪な姿はない。
 もう行ったかと、息を吐きかけてふと、汗ばんだ額に風を感じた。
 サイドバイザーの部分だけ、窓が開いていた。停車中に籠もる熱を逃すため、開けていたことを失念していた。
 運転席側の側面に、女の胸が、押しつけられて潰れている。
 首のない肩が、ねじ込まれるように徐々に隙間から入り込んでくる様に、悲鳴を上げて助手席へと逃げた。
 こちらの扉も開かない。
 人としての形を無視し、一連なりの肉塊の如き様相車内に入り込んでくる女の姿に、窓の脇にあるドアロックを片手で探り、扉に背を預けたまま開く。
 当然のように、地に落ちるに体を任せて、後方の脇にずれて扉を閉めた。
 間一髪、伸ばされた手が、内側の窓にびたりと貼り付く。
 窓の隙間に半端に体を入れたせいで動けない様子に、そのまま倒けつ転びつ人里に、呑気なほどに明るい子供の声がする方へと走る。
 そして。
 神社の正面を抜ける位置に、その参道の中央にぽつりと、こちらを向いた首が、置かれていることに気付いた。
 長く、長く、黒髪ををまるで水の流れのように四方に伸ばし、のっぺりと凹凸のない顔立ちの中、瞳のない、真っ黒な穴のような目が、こちらを見ている。
『ウソツキ』と、声はないまま、口の動きだけで告げられた一言に、視界が一気に白く染まって気を失った。


 特別、好いた方ではありませんでした。
 家から、里から連れだしてくれるならば、遠い地へ行けるのならば誰でも、何でも良かったのです。
 明らかに、里の者ではない風体、所作の端々に滲み出る身分の高さ、それに惹かれるふりで声を掛けました。
 鄙者の無礼と邪険にされなかったのは、造作のおかげがあるのでしょう。それとも、度々に顔を合わせる偶然を、何かの縁と取ったのかも知れません。
 あの方に好意を抱いたのではなく、逃げ道の一つとして、抑えておきたかったのです。
 娘の身を案じる振りで、より財のある家に遣ろうと目論む家長の思惑も、ひたすらに慕ってくる妹の眼差しも、その全てが煩わしかったのです。
 それこそ池の主に呑まれれば、好き勝手な噂に胸を痛めることもないだろうと、思ったこともありましたが、白蛇の、黒い瞳を見れば不思議と心が落ち着き、あと少しだけ、もう少しだけと堪える気にもなったのです。
 その折、縁戚との婚儀が決まったと、告げられました。
 家からさほど距離のない、里を離れたとはとても言えない近さの家に。
 予想はしていたことでした、田畑を持つか、財を蓄えているか、牛馬を多く抱えているか、父の選択肢は多くはなく、また血筋の縁を固めようとすれば、里から出ることは叶わないと。
 故に、あの方にそれとなく、しばしばこの地を訪れては、池に捨てている何かについて伺ってみることにしました。
 それとなく、口の端に上らせると、共に来いと仰せになりました。
 あの方が処分しているものを考えれば、付き従って里を離れても、命があるかは解りませんでした。
 縁談のまま里に残っても、遠からず蛇に呑まれる道を選ぶことは、己で知っておりました。
 どちらを選んでも、同じ結末ならばこの、里を離れた場所で命絶えたいと、そうと願って心を決めました。
 傍らの妹が、嫌がって袖を引きますのを、時間をかけて説き伏せて、如何にも親しげにあの方の袖に振れて背を向けました。
 泣きじゃくる声が、一瞬だけ、ひ、と鳴りまして。
 天と地がぐるりと回って、地に肩を打ち、背を枝に抉られ、手足が自分の意思と関係なく動く様を見ながらどぷんと水に落ちました。
 寸前、大きな石にぶつかった頭に、ごきりと首が折れる音を耳で聞いて、まつという名に縛られたまま、何かを待ち続ける必要はもうないのだと、安心したのが、私の最後の記憶です。


 熱中症で、倒れたことになっていた。
 救急車で運ばれたらしいが、全く記憶にない。熱に浮かされるように節々が痛み、その合間合間に色んな夢を見た気がした。
 私は知らない女であり、蛇でもあった。
 ようやく目覚めたと、自分で確証を持って目を開いたのは、深夜だった。
 大部屋なのだろう。空間を覆うカーテンが風に揺れて、人の気配に脇を見ると、祖母がパイプ椅子にちょこんと腰掛けていた。
 もう、三年前に彼岸に旅立ってしまった、小さな姿のままで俯いて、祖母は問う。
「なぁ、あんた。ちゃんと恋は知ってるかい? 人を好きになれてるかい?」
 私の顔を見る度に、何度も何度も聞いていた。
 曾孫の顔が見たいくらいの意味に捉えていたが、祖母は、ずっと最期まで、そのことだけを案じ続けていた。
 その意味が、今なら解る。
 恋を知らぬ女は、蛇になる。そういった、血筋なのだ。
 夜陰に紛れて見えない祖母の下肢、カーテンの下を通って扉の向こうに伸びる長い影は何かに反射して時折白く光って見える。
 うん、と頷いた。
 ちゃんと人を好きな気持ちは知ってる、だから安心しておばあちゃん。
 いつものように答えて自分の腕に触れる。
 腕は、まるで濡れているかのように湿り帯びた冷たさで、爬虫類めいた質感を掌に伝えた。
 祖母が溜息を吐く。生前ならば、安堵を匂わせていたそれは、今はふんだんに呆れを含んだ怒りを吐き出した。
「嘘吐き」

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