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朗読との出会い、そして朗読録音の苦労

良く見知った方がライブで朗読を披露した。
私はそれを観て物語に深く惹き込まれる感覚を覚えた。
映画や小説やコミックでも、物語に惹き込まれる事はよくある事で、そういう感受性を持った事は大変嬉しく思う。

朗読という表現方法。
ただ音読すれば良いってものでは無い。
朗読者は物語を理解し、自らの情熱とアーティキュレーションを操り、物語を音声と映像に変換してオーディエンスに届ける。

聴く者は脳裏にそれぞれ映像を思い浮かべ、語られる声と共に物語の深淵へと惹き込まれる。自分ではない、他者の人生と歴史を追体験できてしまう不思議な感覚を味わうのだ。

物語の終わりと共に充足感と喪失感を同時に味わい、少し遅れて身体の底から湧き上がる感動。
語られた他者の人生が追憶となって自らの人生とリンクし、他者の眼を通して見た景色は走馬灯の様にありありと脳裏に浮かぶ。
主人公の人生を貰ってしまったかのような錯覚に陥るのだ。

この様な現象を体感し、私はすっかり朗読の楽しさと奥深さの虜となった。
知り合いの朗読に飽き足らず、もっと他の人の朗読を聴いてみたい。
同じ物語でも語り手によって表現も変わり、受ける印象も全く異なる。
結末は知っていながらも、脳裏に浮かぶ景色は語り手の思うがままに変容するのだ。

映画でも小説でもコミックでも無い。全く別の物語の楽しみ方を知ってしまった。

淡々と読まれる方。
朗々と謡うように読まれる方。
表現豊かに読まれる方。
演技を交えて読まれる方。

朗読のスタイルの幅広さに驚くばかりだった。
同時に「なんて自由な表現なんだ」と感心した。

ライブ。動画配信。音声配信。
検索すればあらゆるメディアで朗読を楽しめる。
ライブでの朗読ももちろん良いし、収録で作り込まれた朗読も良い。
声だけだったり、BGMや効果音を加えていたり、複数人で舞台劇のように演じていたり。
朗読は一粒万倍の楽しみ方を提供してくれる。

このようにすっかり朗読に魅せられた自分。
自らも朗読をやってみたいという考えに至るのは早かった。
幸いにして自分は録音とそれら機材の扱いには長けている。
無いのは朗読の技術。

言葉を覚えたり音楽を覚えたりするのと同様に、始めは人真似から。
マイクとレコーダーを用意したら、手本通りに読んでみる。
が、しかし…
発音も滑舌も絶望的な出来。
聴いた人が顔をしかめるのは容易に想像できた。
歌を歌うのとは全く別の神経と筋肉が必要だと知った。
現代文ならまだしも、古典文学のように現在は用いられない語句や独特の語尾の発音に慣れるまでかなりの時間を要した。

発音は覚えた。
音楽と歌をやっていた経験が無駄にならなかったのは幸いだ。
歌は音程と演技力と音の切り際の総合技術。
残る問題は滑舌である。

「外郎売り」というテキストを入手した。
歌舞伎十八番。外郎という中国人がもたらした妙薬を売り歩く円斎が用いた売り口上の長台詞である。
これが読むだけでも大変なのだが、口上であるからして一気呵成に語り上げる。
早口言葉のような文脈も多く登場する上、緩急と抑揚の具合も付ける。
一回読み上げるだけで汗が出てかなりの運動にもなる。
出来は良く無く、噛みに噛みまくるし、発音も曖昧な所が多く、お手本通りに読めるにはおそらく年単位の時間を要するだろう。
しかしこの「外郎売り」を11代目市川海老蔵の長男、勸玄君は6歳の時に歌舞伎の舞台でこれを披露した。
当然、舞台なので長台詞も丸暗記である。
これを見て負けてらんねぇと思わなければ漢が廃る。
毎日一回は口にするようにしている。

こんな具合に人知れず訓練を始めて2ヶ月。
最近になってようやく自分が読んだ朗読の音声を配信に乗せることができた。
スタンドFMという配信プラットフォームで私の朗読をはじめ、コラムやフリートークを発信している。

若い頃から始めた音楽の趣味のおかげで録音の機材だけは良い物を揃えていたので、ノイズも少なく音質だけは良い、音質だけは。

喋りや朗読の出来はまだまだ素人。
しかし齢50にして新しい事を始められた喜びは大きく、私を朗読の魅力に引きずり込んだ知り合いには心から感謝している。

追いつく事は出来るだろうか。
新たな沼の底はまだ見えない。

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