彷徨うおっさん5 誰かを好きになること 恋愛経験と人格形成

 一生懸命に生きているだけなのに、もがけばもがくほど、望まぬ経験をしてしまう。こんな風に生きたい、こうすれば解決するかもと、色々試しているうちに歳ばかり取る。大概の人はそうして一生を終えるのかもしれない。けれども、その歩みの全てを否定はしない。経験はすべて肥やしだ。自分にとってだけでなく、多くの人にもそうなり得るだろう。そのためにおっさんは今日も筆を執ることにする。

 誰かを好きになってくっついたり、拒絶して別れたり、それはごく自然に内面から湧き上がる情念である。その正体が憧れか、勘違いか、はたまた単なる性欲かは人それぞれその時次第であるが、いずれであっても恥じるべきことや否定すべきことではない。むしろその情念に上手に向き合い、自分の中で穏やかな何かに昇華することができるかどうかが健全な人格形成に大事なのではないだろうか。
 
 今回はそんな恋愛経験と人格について、おっさんの体験を交えながら考察する。

<好きになる経験の大事さ>

 恋愛経験といっても、実際に付き合ってイチャイチャチュッチュすることだけが全てではない。異性に対してたまらなく好きという気持ちを抱くこともまた大事な一歩と思う。
 好きになると、案外なんでも受け入れてしまうのではないだろうか。相手に喜んでもらうために我儘を聞いたり、以前であれば批判していたことにも肯定的になったりと、良し悪しの問題ではなく、そんな心持ちに変わるのではないだろうか。

 相手もまた、その想いに心を動かされて恋に落ちることも珍しくない。理性的に捉えれば異常事態でもあり、逆に「気持ち悪い」と盛大に拒絶されることもまた珍しくはないのだが、それでもそのぐらい本気になって相手のためを想えるという状態は、少なくともそうなった本人にだけは間違いなく尊い経験である。

<どんな人が好きか答えられない人>

 ある先輩が「嫁探しの旅」などと妙なことを言い、相手を求めておっさんに合コンを見繕うように頼んできた時の会話を紹介する。

おっさん
「どんな人がいいんですか?」
先輩
「誰でもいい」
おっさん
「いや、誰でもいいってことはないでしょう? 容姿でも性格でも、有名人に例えたらどんな人とか。。。」
先輩
「いや、選ぶ権利なんてないし」
おっさん
「そういう問題じゃなくて、それじゃあ紹介しようがないでしょう」
先輩
「クラスで一番人気のない女性でいいよ」
おっさん
「そういう基準で人を選んではダメですよ」
先輩
「じゃあ、コンゾー君は何位ぐらいの女性を選ぶの」
おっさん
「順位じゃなくて、好きになるかどうかでしょう」
先輩
「仮にだよ、その好きになった人は大体何位ぐらいの?」

 一応やむなくこの後も話を合わせて、順位は気持ちの上では絶対に一位、主観で決まらないにしても真ん中より上の女性で出来るだけ高い、理由は自分が選んだ女性が下位のはずがない、それはおっさんの想いや愛情でもあるし、無意識に真ん中より上の存在と思いたいという気持ちもあるだろうしと、話が脱線しつつも受け答えをしたが。。。ハッキリ言って話が通じず、以後この人には絶対女性を紹介しなかったのは言うまでもない。
 また、この先輩本人は「自分はおおらかに弁えて、どんな女性でも受け入れるできた人間だ」と勝手に思い込んで格好つけている節すらあったが「バツイチ子持ちの相手」の話をしたら急に不機嫌になったり、「若ければ若いほど」「子供意外に目的なんかある?」などと発言する、予想以上に危ない人だった。

 この人の例は極端ではあるが、いずれにせよある程度好みの人が思い浮かばないということは、これから付き合う相手を真剣に考えていないに等しい。
 相手を考えることができる人格者に成長しなければ、この人のように、いい歳になっても、幸せな恋愛も結婚もおぼつかないだろう。

<好きだから、好きでいたいからこそ、相手を知り、擦り合わせ、関係を続ける>


 異性にアプローチして何度か痛い目に合えば、その好みも想い方も変化していくのは当然だとしても「誰でもいい」「クラスで一番人気のない」などという結論は、何回振られてもあり得ない。当たり前のことだが、どう考えても好きでもない相手と一緒になどいられやしないからだ。

 ある異性に興味を持ったとして、なぜ好きになったのかを考え、合点のいく理由にたどり着くという経験はないだろうか。
 その人と上手くいかなかった場合は区切りをつけるため、恋が成就したのであれば熱が覚めた後にもより絆を深めるため、また、一度付き合っても、好きになった理由に結局合点がいかず、最後は冷めて別れ、次に進むことだってある。
 だがいずれにしてもその過程で、価値観の柔軟性や、愛情の発揮によって、少しづつ相手と上手に付き合う方法や、気持ちのすり合わせ方を学んでいくように思う。結局の所、この経験が人格形成において最も重要な成果ではないだろうか。

<恋愛経験が無い人=人格的に未熟 とされるのはやむなしか>


 恋愛経験が無い人は未熟である。よく言われる話だが、これをまともに発言すると批判を受けることがしばしばある。

曰く「恋愛して結婚していても、子供みたいな精神で、他人に迷惑をかけている人間はいくらでもいる」

曰く「恋愛経験などなくても、誰にでも優しくて気遣いができる人もいる」

 無論これらの事実も否定はしないが、恋愛経験が豊な人格形成に役立っているのも事実である。
 恋愛経験の意味するところは、その人に深い愛情があるかどうかではないだろうか。愛情がある人は恋愛も成就しやすいし、長続きしやすいものだ。また、現に相手がいない場合であっても、好きになったことや好かれたことぐらいあるだろう。
 恋愛経験の意味を自分に都合よく解釈して反論する狭量さには、開いた口が塞がらない。「恋愛経験が無い人は未熟である」と言われて、差別だ偏見だなどとカンカンになるようでは、愛情が足りないと言う点で図星と言わざるを得ない。やはりそう言う人こそもっと誰かを好きになり、こうした言葉が気にならないぐらい、人格を成長させた方がいいだろう。

<誰かを好きになるためには>

 
 相手探しにしても、人格的成長にしても、まずは誰かを好きになることが大前提である。恋愛経験のない人の殆どはここが欠如しているように思う。

 有名人だっていい。アイドルだっていい。もし対象が二次元でも、好きにならないよりはよほど良いのかもしれない。憧れなり、自分の好みの欠片なりを、それらからまず拾い集めたらどうだろうか。

 自分なりの好きの欠片が集まったら、今度は異性と接する機会を作ったら良い。もちろんいきなりこの段階から入っても構わない。
 性欲から入ってしまう人もいると思うが、そこは相手に迷惑がかからない限りは否定しなくても良い(あまり露骨だと嫌われるけれど)。
 若くて経験が少ないうちは、大概はどうしようもない理由で相手に惚れたりする。その愚かさを素直に認めることもまた大事である。下手にその愚かさと向き合うことを拒否し、経験が未熟のまま、カッコつけて、例えばベタな修行僧のような抑圧の方向に向かうと、かえって心の安定を失ったり、後悔ばかりで、かつてのおっさんのように成長が遅れてしまうこともある。

<恋愛経験で等身大のみっともない自分を認めて大人になる>

 
 好きになることを(性欲という理由や周囲の嘲笑などから)恥じたり、好きになったこと自体を認めない人もいる。好きになってアプローチした筈なのに、振られた途端に相手を悪く言う人もいる。全くもって好ましくない。

 好きになることはとても大事なことで、その情念と向き合うことが人格形成につながるのだと理解できれば、いつまでもその気持ちを恥じたり、認めなかったり、相手のせいにして否定したりは出来ない筈である。むしろそんなみっともない自分を早く認めたら良いのである。そうすれば自分も相手ももっと好きになれる。

 確かに耐え難いほどみっともない時もあるし、相手にもまた、未熟で理不尽な感情をぶつけられることもある。単純に気持ちをどう処理していいかわからない時もあると思う。けれども本質に立ち返れば、いくらか冷静になれると思うし、成長する過程の失敗や周囲への迷惑は若いうちであれば許される粗相でもある。

 また、若い頃である程、情念も大きく、相手に恋愛感情を抱きやすい。恋愛経験を通じて、少しでも早く等身大の自分に気づき、大人になる機会を逃さないで欲しいとおっさんは思う。これがおっさんぐらいの歳まで未経験のまま拗らせると、恐らくますますどうやって大人になって良いか分からなくなるだろう。
 上手くいくかどうかも別、みっともなくても良い、当然大事な一線は引くとしても、若いうちはまず、どんどん誰かを好きになったら良いと思う。





 


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