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彷徨うおっさん74 移ろいゆく幸福観(4/6) なんでも経済換算の虚しさ
前回はシリーズ冒頭で述べた、幸福感の変遷の②番目、生きがいとなる価値観が、具体的なものから抽象的なものへと変化しているかもしれないという話について述べた。
今回はその続きとして、物、財産、地位と言った目に見える具体的なものにとらわれてしまう考えとはなにか、おっさんの自論を述べたい。
<人間を経済価値に置換えようとする思想の限界>
述べてきたように、旧世代は何事も具体的何かに結び付けがちという印象がおっさんにはある。例えばお金もそうだ。
お金に聡いこと自体は必ずしも悪くないが、ややもすると金儲け優先の思考や、市場原理に基づいた視野狭窄な判断になりがちに思う。
市場での金儲けは、やりたいことが具体的で分かりやすいが、一方で、広範で抽象的な話(哲学や相互のバランス、市場原理の外への模索など)が置いてけぼりになるように思う。
どう生きるか、何を目指すか、何が欲しいのかという問いに対し、自由に適当に生きたい、目標などない、欲しいものなどないと答えても良い筈だ。
しかし、具体的な目標で生きてきた人からするとそれは、芯が無い、ふわふわしている、意味不明な人達に映ることだろう。
目を丸くして返答に困ったり「禅問答か何かかい?」「フーン、ソレデ?」などと冷たい反応をする傾向も見られる。
<会社での人事評価面談に見られる経済換算の具体化思考>
少し話が逸れるが、会社での人事評価について。具体的数値目標を決め、その達成如何で給与水準やポストを決定する仕組みが今も採用され続けている。
人事評価面談の場では「何をしたいのか、何が得意なのか言ってごらん。それで仕事や配属を判断する。」などと、口では言っておきながら、数値で理屈を述べ、結局は会社都合。そうした肩透かしも見られる。
組織人である以上、会社都合はある程度受け入れざるを得ないが、部下の欲求を具体的に絞って分析するような今の評価軸では、会社都合への納得感も下がるように思う。会社も上司もちっとも分かってくれない。。。と
社員の意向調査について、時代にそぐわない雑な分析になっていて、建前の評価と、浅くて場当たり的な判断が積み重なっていく。これでは労働者とのミスマッチが改善できないようにも思う。
<人間の価値観は近年複雑になったのに、評価分析手法は粗いまま>
話を戻そう。とある事業をやりたい。ある物を手に入れたい。その場所に行きたい。これができるようになりたい。
それらは分かり易くて一面には良いが、ややもすると単なるレッテル貼りに終始し、他者の捉え方が粗くもなるのだとおっさんは思う。
相手を安易に記号化して満足してしまうことに無自覚であれば、時に失礼、或いは押し付けがましい存在にもなるだろう。
現在は人の価値や在り様も多様化しており、一個人にしても多様な背景を持っているという認識が広まった。自身の感覚では永久に共感できない感性も世の中にはあり、そうした物に対しては、理解を試みた末の安易な記号化ではなく、分からないものは分からないで良いと冷静に考える必要があるとの理解も、現代ならいくらか容易に思う。
にもかかわらず、旧世代は物質的な欲望を追求し続けることに慣れて来た人達であり、理解できない相手を、ハッキリしない、優柔不断、意味不明と安易に否定してしまうところがあるように思う。
そして、よせばいいのに、単なる事務作業、ルーチンワーク、趣味でぼんやりやっているだけのこと、家族や恋人を持つこと、将来の夢、そうしたあらゆる相手の欲求を、無自覚に具体化、抽出しようとして詰問や分析に走るところがある。
だがそれでは永遠に理解が進まないようにも思う。
<現在はもっとぼんやりしたものの価値が希少に思う>
述べてきた経済的価値や、具体的な欲求とは異なる価値の一つとして、昨今の若い人達が重みを置く「コスパ」「タイパ」という考え方がある。今の人は目に見えない概念としての、自由や個人の時間の獲得を欲していることが分かる。
自由を手に入れて何をしたいのか? 個人の時間を手に入れて何をしたいのか? と詰め寄るように尋ねる人が時々いるのだが、今の人は、恐らくそのような言い方をしても肩をすくめることだろう。自由そのものや概念を欲しているのであって、具体的な何かを欲しているわけではないのだから。
豊かで多くの選択肢がある現代では、自由になった時間で流されるままに過ごしたい欲求だってある。或いはいくつかピックアップが出来たとしても、優先順位や具体性は希薄である。もっと言うと、いちいち答えたくないし面倒くさいから聞かないでくれと言う想いもある。
また、これは氷河期世代の節制を当たり前とする考えとも親和性がある。
世の中全体が豊かである一方、資本主義に呑まれすぎていてい相対的に劣等感を感じるというチグハグな状態が現代である。
一人で自由気ままに生きるに十分な筈が、旧世代同様に家庭を持って家を買って、子供を育てていい大学にやるなどと考えると、途端に「下流」を意識することになる。
そうなると現実的に節制をする必要性があるわけだが、それが主流になってくると、
切実に節約を必要としない単身者からも、消費しないことを楽しむという考えが生まれてくる。
あるもので満足するというチャレンジ自体に生きがいを感じるとも言えるかもしれない。
ミニマリストと呼ばれる人や、オフグリッドと呼ばれる電気なしの生活を楽しむ人がそれに該当するだろう。
こうした思想や生活形態も、具体的というよりは、やはり抽象的な概念である。
そしてそれを楽しむこともまた、幸せにつながるのだから悪いことではないはずだ。
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