日記(2024/6/27)

※漫画「ダンジョン飯」最終巻までのネタバレがあります。

◯サラダボウルとメルティング・ポット/ゾーニングとフュージョン

 先日の日記で紹介した宮台真司とダースレイダーの記事に「サラダボウルとメルティングポット」という比較があった。高校地理で習った、「人種のサラダボウル」と「人種のるつぼ」ってやつである。

 「サラダボウル」は「ゾーニングによる多様性」。ゾーニングとは要は住み分けだ。何かしら共通点を持つ同士でそれぞれ集まって、「それぞれの場所に、それぞれの良きもの・イヤなものがあろうから、それを互いに尊重して、侵害し合わないでおこう」というあり方。しかしそれは見たいものだけ見る、見たくないものは見ない、というあり方でもある。宮台は「現にある多様性は所詮『サラダボウル』」と述べる。
 一方、「メルティングポット」は「フュージョン」による多様性。「フュージョン」は「なりきり」だ。しかし、「立場の可換性=入換可能性」=フュージョンには限界もある。たとえば、「もしお前がオレでも耐えられるのか。耐えられないのなら制度を変えろ」という問いは、民族や宗教や近代化度が違って生活形式が全く異なる相手に対しては通用しない。「『お前がオレでも耐えられるのか』に対して『耐えられるよ』で終了。」「『死ぬのは嫌でしょ?』『別に』という話になりかねない。」
 その限界を認めたうえで、それでも「フュージョン」は「倫理」でもあった、と宮台はロールズやローティを引用しながら言う。そしてゾーニング空間はその「倫理」を失わせてしまう、と。
 さらに、『ミッドナイト・ゴスペル』を批評しながら、「観光文化主義」批判が紹介される。そこから自身は何も影響を受けないような、文化に対する「観光」的な接し方を批判するのが、ここでの「観光文化主義」批判だ。ゾーニングは人畜無害な観光文化主義を伴い、メルティング・ポットは実存の変容を伴うもの、と説明される。*

 この間バイト先の軒先に生えている植物にアゲハ蝶の幼虫がついていた。私はあの形態の虫がこの世に存在するものの中でもトップレベルに苦手なので、遠巻きに眺めながら、オーナーとそのことについて話していた。
 オーナーは私が虫が本当に苦手なのだと聞き、「世界には芋虫を食べる国もあるんだから」と笑ったので、「今コオロギチップスとか売ってますよねー」と返事をした。するとオーナーは「そうなの!? 気持ち悪いな……」と言って、私はそりゃダブルスタンダードだよ〜と思ったのだった。
 「虫を食べる」ことを知っていても、どこか遠くのことで自らには起こり得ない出来事として向き合うならそれは観光文化主義的でゾーニング的な態度であるし、身を持って体験したり、それを知って自らの食の様式やそれに対する認識が変わってしまう、というような向き合い方をするならそれはフュージョン的な態度であるといえるだろう。
(一応補足しておくと、じゃあ私は昆虫食に対してフュージョン的に付き合ってるかと言われたら、胸を張ってそうです! と言えるわけでは全然ない)

◯ダンジョン飯
 さて、そんなことを考えていて思い出すのが『ダンジョン飯』である。
 『ダンジョン飯』で描かれる「魔物食」の描写は、まさにフュージョンの描写として読みとることができるのではないだろうか。食とはまさに、かなり物質的な意味で、異物を自らの血肉とし、フュージョンする行為である。以下、『ダンジョン飯』における魔物食を巡る描写をいくつか取り上げながら考えてみたい。
 『ダンジョン飯』の世界にはモンスターと呼ばれる生物が、私たちの世界における動物とはまた別に存在する(つまり動物も存在しており、家畜なども飼育している)。主人公ライオス率いる一行はある事情から魔物(モンスター)を食べることを決意するが、それは彼らの世界の常識からすればかなりあり得ない行為らしく、例えばライオスの仲間であるエルフのマルシルははじめ「(魔物を狩って食い扶持にしているのは)地上に戻れない犯罪者とかの話でしょ!?」と猛烈な拒否反応を示す。「犯罪者」とは世のルールを破ってしまった人々を指すわけだから、ここからも魔物食は世の規範から外れた行為、そしてそれが悪い方向で捉えられている行為である、ということが伺える。
 しかし彼らにものっぴきならない事情があり、魔物食に精通するドワーフのセンシが仲間に加わったことも手伝って、どんどん魔物を調理し、食していくことになる。一行の中でも特に魔物食を受け入れ難く感じるマルシルが半ば諦めながら段々魔物食に慣れていく過程はユーモアを持って描かれていく。彼女が覚悟を持っておおらかな心で一挙に受け入れるのでもなく、しかし彼女だけは魔物食を全くしないのでもなく、怒ったり、拒絶したり、センシの料理の腕に唸らされたりしながら、必要に駆られると同時に(本人にとっては不本意だとしても)どこか楽しみながら魔物食という異文化を身につけていく姿は、とても自然な描かれ方であるし、そうした彼女の営みをとても肯定的に描いていると感じる。

 「食べる」という行為、何かを口内に運び、歯ですり潰してぐちゃぐちゃにし、嚥下するという行為。この行為は多くの人々にとって、自覚を超えた部分で「受け入れられる/受け入れられない」という明確な線引きが行われる行為だろう。(例えば筆者は他人の親が握った握り飯が食えない、というタイプである。)
 一方で、「食べる」という行為は生きるための必要性が非常に高い行為であり、ヒトという種族を超えてかなりの普遍性をもって行われることでもある。『ダンジョン飯』は、第1話、そして最終話でもそのことを「食は生の特権」という言葉で祝いでみせる。たとえば思想においてフュージョンすることよりも、食はある意味ではかなりユニバーサルにひらかれたフュージョンの方法であるといえるだろう。私だって腹が空いて空いて仕方がなくて、そのとき目の前に他人の親が握った飯しかないんだったら、それを食べるに決まってる。幸い私たち人間には、調理という優れた技術も発達している。

 さて、主人公であるトールマンのライオスは魔物たちに対して並々ならぬ関心を持つ人物である。彼は研究者にこそならなかったが、専門的な知識も豊富に備えている。そして彼はその関心の先に、魔物を食べてみたい、と実はかねてから思っていた、ということが作中では示される。更には、ライオスは魔物になりたいと心の底では強く願っていたのだ、ということが終盤示される。彼は人間でありながら人間を嫌っており、非人間であり人間を殺す魔物に憧れていたのだった。
 例えばだが、私たちの世界においても、動物に高い関心を持ち専門的な知識を持つ人の全てが、その動物を食べてみたい、と必ずしも思うわけではない、と思う。作中でもライオスは仲間たちからさえも終始変わり者扱いされるわけだが、「彼は魔物になりたかった」というキーワードから、このことをこう読み解くことはできないだろうか。彼は魔物と対等になりたかったし、魔物になりたかった、だから魔物を食べたかったのだ、と。
 ライオスたちの世界において、常識的には魔物は人間を襲うものなのであって、人間は魔物を殺すことはあっても食べることはない、ということは先ほども説明した通りだ。だから、彼らが自分たちの血肉を食い漁るように、自分も彼らを食い漁ることで、ある種人間の法から外れ、彼らに近づきたかったのではないか。そして、立場を入れ替え可能にして近づくためにはできる限り対等であることが条件となる。だからただ一方的に食われるだけなのでなく、食い、食われるという対等さを手に入れるために、彼は魔物を食べたいと願っていた、と読むことができるのではないだろうか。これは私たちが暮らす社会の、例えば動物に対し一方的な権力を振るうことによって成り立っている食文化に対する批判であるとも捉えられる。
 ダンジョンや魔物から一方的に何かを持ち帰り自分を変えないのではなく、魔物と食い、食われるという対等な関係を築き、そのことで自らも人間世界の規範をはみ出たり疑ったりすることを余儀なくされ、彼らを喰らい取り込んでいこうとするライオスのあり方は、観光文化的ではない、自己変容を伴うフュージョン的なありかたである、と考えることができるだろう。

 明日はまたこの続きを書こうと思う。

*一昨日の日記に引き続き以下の記事を、参考、引用。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?