私はボクシングが好きだ!:日本人世界王者⑨~ 辰吉丈一郎 ~

元WBC世界バンタム級王者、辰吉丈一郎。
辰吉丈一郎は、派手なリングパフオーマンスとガードを下げたボクシングスタイルが、私の印象に残っている。
アマチュア通算成績は19戦18勝 (18KO・RSC) 1敗。3ラウンドしかなく、ヘッドギアを着けて試合をするアマチュアの試合はほとんどが判定で勝敗が決まるが、全ての勝ち星をKO・RSC(レフリーストップコンテスト、プロでいうTKO)で決めるなど、当時からその強さは際立っていた。
1989年9月29日、プロデビュー(6回戦)。韓国の国内ランカー崔相勉を2回KOに降す。辰吉の前評判は高く、日本人ランカーにオファーを出したが拒否された。
1990年6月28日、3戦目。WBCインターナショナルバンタム級王者サムエル・デュラン(フィリピン)とノンタイトル戦を行い、7回KO勝ち。同年9月11日、4戦目で日本王座初挑戦。日本バンタム級王者岡部繁を4回KOに降し、王座獲得に成功。4戦目での日本王座獲得は最短タイ記録。
1991年9月19日、世界初挑戦。WBC世界バンタム級王者グレグ・リチャードソン(米国)に挑む。王者相手に終始優位に試合を進め、10回終了TKO勝ち。具志堅用高(9戦)を抜いて国内最短新記録(当時)となる8戦目で世界王座奪取に成功した。しかし同年12月、左眼の異常を訴え、大阪市内の病院で検査。結果、「網膜裂孔」の診断を受け、そのまま入院・手術。翌1992年2月6日に予定されていた初防衛戦は中止となり、長期間の休養を強いられることとなる。
1992年9月17日、王座奪取から丸1年後の初防衛戦。休養中にWBC世界バンタム級暫定王座に就いたビクトル・ラバナレス(メキシコ)と統一戦を戦うが、9回TKOに敗れ王座陥落。プロ初黒星を喫した。
1993年9月、再び左眼の異常を訴える。検査の結果、今度は網膜剥離が判明。手術は無事に成功。退院後、現役続行の意思を表明する。
1997年11月22日、WBC世界バンタム級王者のシリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)に挑む。5回に王者からダウンを奪ったものの、6回以降は王者の「捨て身」とも言える反撃であわや逆転KO負けというところまで追い詰められる。しかし、7回、左ボディブローで2度目のダウンを奪う。辛くも立ち上がった王者を連打で追撃し、レフェリーストップ。この瞬間、約5年ぶりの世界王座返り咲きを果たした。その後、2度の王座防衛に成功。
1998年12月29日、3度目の防衛戦。元WBA世界バンタム級王者でもあるウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)と対戦。6回、挑戦者の左をまともに浴び、プロ2戦目以来のダウン。辛くも立ち上がったものの、挑戦者の激しい追撃に襲われる。そして、何発もパンチを浴び、最後は挑戦者の右ストレートを左のこめかみに受け、仰向けに崩れ落ちた。ノーカウントで試合をストップされ、完全失神KO。3度目の世界王座陥落。1999年1月、父が他界。
1999年8月29日、王者・挑戦者の立場を入れ替えてのウィラポンとの再戦。開始当初から一方的に打ち込まれ、最後は7回、レフェリーストップによるTKO負け。試合後、現役引退を表明した。
しかし、日増しに現役続行への思いが強まり、後に引退表明を撤回。2014年現在でも辰吉本人は現役に拘り、トレーニングを欠かしていないと言う。
 私は、辰吉がウィラポンにKO負けした試合が衝撃的で、忘れられない。心の中で「もう、やめてくれ!」と思ったほどだ。ボクシングというスポーツの、簡単には近づけない厳しさを痛感した。でも、眼の障害があるにも拘らず、失神するまで闘いぬいた辰吉、そして今でも現役にこだわり続ける辰吉は、人生そのものがボクシングだと思える、比類なきボクサーである。

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