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「群れ」と「孤独」を語る

世の中には「一人でも十分生きていける」っていう人と、「誰かといないと何もできない」という人がいます。私自身は文句なしで前者の人間なのですが、ただ単に友達を作ることができない言い訳をした結果、一人の時間に慣れてしまっただけかもしれません。一方で野生の動物を見てみると、群れをなさないと生きていけないような動物が多く、群れからはぐれてしまうと生きていくことすら危ぶまれます。

今回は、我々人間が生きていくのには孤独がいいのか群れて生きるのがいいのかということを考えていきたいと思います。考えてもはっきりとした正解には辿り着かないかと思いますが、皆さんはどちらがいいでしょうか?


「群れる」の意味/「群れ」の定義

本題に入る前に、まずは「群れる」という言葉の意味と「群れ」の定義を明らかにするところから始めたほうがいいのかなと思いますので、辞書で調べてみましょう。

1か所に多く集まる。むれをなす。むらがる。「野犬が—・れる」「広場に若者が—・れる」

―weblio辞書「群れる」より

もう書いて字のごとくといった感じですね。しかし、これだけだと「群れ」の定義がよくわからないので、さらに詳しく調べてみます。

群れ(むれ)とは、同一種の生物の個体多数からなる集団である。まれに複数種を含む集団を指す場合もある。

―ウィキペディア(Wikipedia)「群れ」より

1 たくさんの人や生物が集まっている状態。あつまり。むらがり。「水牛が—をなす」
2 なかま。同類。やから。「無頼(ぶらい)の—に身を投ずる」

―weblio辞書「群れ」より

調べてみて初めて知ったのですが、「群れ」というのは一般的に「同一種生物の個体多数からなる集団」という意味があるみたいですね。例えば、イヌとネコが5匹ずつ集まった10匹の群れがあった場合、それは「群れ」とは言わないということなのか?と思いましたが、そこまで突っ込むと本題から逸れてしまいそうなのであまり細かいことは気にしないでおきましょう。

また、「何人(何匹)からが『群れ』となるのか」ということも合わせて調べてみましたが、「2人(匹)以上」というものが多かったことから、当記事での「群れ」の定義については以下の通りとさせていただきます。

同一種生物の個体多数(=人間同士)からなる2人以上の集団

―この記事での「群れ」の定義

「2人」だと別の言い方もたくさんありますが、今回は「群れ」に焦点を当てたお話になるので2人であろうが1,000人であろうが「群れ」とみなします。ご承知おきください。


群れるのが苦手だった筆者

ここからは私の学生時代~現在に至るまでの体験も交えてのお話となります。思い出したくない体験もあるのですが、私のような陰キャを反面教師にしたい方は大いにご参考にしてくださいませ。

私は昔から友達を作るのが大の苦手で、高校2年生からは休み時間に机に突っ伏して寝るという典型的な「ぼっち」として校内で名を馳せていました。違うクラスに同じ部活の友人がいたのはいたのですが、彼もクラスの友人との付き合いがあると思いますので、自分から簡単に近づくことができませんでした。

その一方で、「ぼっち」である自分には嫌気がさしていました。その原因として、小学校・中学校・高校とずっと一緒だった腐れ縁の同級生に「お前友達作らんとヤバいぞ」と言われてそれを真に受けていました。この時は「友達と一緒にいて当たり前」という価値観から、一人でいる自分がみっともないように感じていました。修学旅行の部屋割り決めも私が一人余ってしまったので、親切な子たちに拾ってもらいました。当時のことを思い出すと体温が爆上がりするのですが、今考えても顔から火が出そうです!

大学生になった当初も「ぼっち」ではありましたが、一人では単位の取得に支障をきたすと思って半ば強引に顔見知りの人がいる集団に入り込み、そこで友人を作りました。そこで気づいたのは「誰かと一緒にいると安心感が半端ではない」ということ。周りからの目もあまり気にせずに済みますし、仲間と会話することで孤独感も紛らわすことができます。単位も滞りなく取得することができましたし、この時ばかりは仲間を作っておいてよかったなと心から思いました。

社会人になってからもやはり誰かと一緒にいないと変な目で見られるのではないかという不安に縛られ、無理に会話の輪に入ろうとしていた自分がいました。しかし、いつからか必ずしも群れる必要はないんだと気づくようになりました。最大のきっかけとなったのはコロナ禍だと思うのですが、一人の時間が増えたことから孤独でいることに対する耐性がついたように感じます。

私はコロナ禍を通じて孤独への耐性がついた方ですが、常に誰かと一緒にいないと落ち着かないという人にとっては地獄のような時間だったのではないでしょうか。寂しさを感じることはなかったというと嘘になりますが、この期間を通じて「群れることがなくても死ぬわけではない」と感じ、そこから精神的にも自立することができたのではないかと考えています。


集団行動は確かに大事! しかし…

ここからは私の仮説をダラダラと綴っていきます。極端なことを言うところもありますが、あくまでも「仮説」ですので何卒ご容赦ください…

私のケースを振り返ってみると、年齢を重ねるにつれて孤独に対する耐性がついてきたというのがある程度おわかりになるのではないでしょうか。若いうちは「誰かと一緒にいないといけない」という価値観に縛られて不安を感じる一方で、歳を重ねると一人で行動することに対する抵抗感が薄れてきています。若い時分に「誰かと一緒にいないといけない」と思い込むのは、周りの目を気にしてしまうことが大きな原因だと考えます。

学校では「集団行動」が重視され、単独行動はあまり好まれません。なぜなら、社会でも「群れ」という集団の中で各々の役割を全うして目標達成に向けて動かないといけないからです。学校で私のように机に突っ伏しているような人も本当は友達を作りたいけど、コミュニケーション能力が欠如しているがゆえに「仕方なく」孤独を選んでいるのではないかと思います。なにも気にしていないように見えて一番気にしているのは彼らなのかもしれません。

しかし、無理に群れてもいいことはありません。集団の中にいても会話に入れない人はよく見かけます。かく言う私もその一人で、集団の中にはいるけれど自分が興味のない話題で盛り上がると沈黙してしまいます。これ以上に恥ずかしくもったいない時間はありません。こんな時間を過ごすのならば、群れを抜け出して一人の時間を過ごすことも容認されていいのではないかと思います。「キョロ充」と言われる人がそれに近いのでしょうか。間違っていたら本当にごめんなさい。

我々は幼いころから「集団行動が大事」と教わることで「誰かと一緒に行動することが当たり前」といつの間にか刷り込まれています。しかし、いざ大人になって集団行動に適応できなかったとしても、一人で生きていける人もある程度存在しているのが現実です。このようなことから、集団で行動することは大切なことではあるのですが、集団から外れてしまう人が「適応能力がない」とか「人間としておかしい」とか非難されるのは納得がいかないというのが私の本音です。学生時代、実際に浴びせられてきた言葉なので。

孤独への耐性が身についている人は生まれつき耐性が付いているわけではありませんが、このような辛く寂しい経験を通じて孤独に順応しているのではないかと考えています。また最近では、一人で行動していくことも人間が身につけるべき「強さ」の一つではないかと思っています。


仲間との時間も自分の時間も大切に!

先ほどの「一人で行動していくことも人間が身につけるべき『強さ』の一つ」についてもう少し詳しくお話ししましょう。人間であれば誰しも孤独になる瞬間はあるものです。生きていると転居・転職・大切な人との別れなどなど、孤独につながる動線はいくらでもあります。そのような状況になると嫌でも一人で行動しなければなりません。また、この状況下では周りに流されることなく自分の意見を発信することも重要になってきます。

孤独という言葉にはどうしてもマイナスイメージがつきまといますが、飼いならしていけば案外悪くないものです。誰にも干渉されることなく自分の好きなことができますし、自分の思うままに行動を起こすことができます。その代わり、自分が取った行動の責任を取るのは自分自身ですからそれについては十分に理解しておく必要があります。

その一方で「結婚しない人は早死にする」とよく言われています。私自身もこの脅しには大変怯えているところで、ゆくゆくは良いお相手や仲間を見つけたいところですが、一度孤独の味を覚えてしまうとそこから抜け出すこともできないのではないかと思っています。いくら孤独に慣れているからといってその環境に甘んじてしまうと致死量を超えてしまうということだと思いますので、どこかで孤独にピリオドを打たないといけないなと考えています。

一人の時間が長いからといっても孤独感はついて回るものですし、いくら仲間との時間が好きだからとはいっても一人の時間は設けたいという人が多いでしょう。無理に群れる必要もないし、無理に孤独を選ぶ必要もなければ他人にどちらかを強制するものでもない。仲間との時間を大事にしつつ自分の時間も充実したものにする。多くの人が「群れ」と「孤独」のバランスが良い人生を送ることができるようになるのが一番いいのですが、これからどうなるのでしょうか。「ぼっち」に理解ある世の中になってほしいというのは私のわがままでしょうか。

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