3歳誕生日におばあちゃんの話 #遺書006
今日、キミ(息子)は3歳になった。
お誕生日おめでとう。
昨日は一足早い誕生日パーティ。
床にのめり込むような四つん這いで誕生日プレゼントの山手線のオモチャを夢中で走らせる、ドレスを着たキミを見ていると「生まれてきてくれてありがとう」という感謝の念が溢れてきました。
そう、最近のキミはプリンセスドレスを着るのが大好きで、休みの日は水色にピンクの花をあしらったドレスを自慢げに着こなしている。ヒラヒラの裾から覗く細い脚と、ツルツルの肩が眩しい。
そんな今日は、僕のおばあちゃんについて書きたい。
キミたちの"ひいおばあちゃん"です。
下町の人気者
僕の母の母にあたる麗子おばあちゃんの家は、東京都江戸川区平井にあった。
母、姉、僕の3人でよく出かけて行ったのを覚えている。電車で片道50分かけて平井の駅に着くと、おばあちゃんが迎えにきてくれていて、4人で家まで一緒に歩いた。途中の商店街で長い竹串に刺さった焼き鳥を買うのがお馴染みだった。
おばあちゃんの家は通りから一本入った小道に立つ一軒家で、今思い返せば日当たりがいい感じの家ではなかった。
玄関のドアノブは茶色い金属製、廊下はニスでツルツルで、階段はとても急だった。台所の床は少しペタペタするビニール製で、食卓にはラップをかけたお稲荷さん置いてあり、僕はそれが結構好きだった。
おじいちゃんは無口だったが、いつもレジ袋いっぱいに駄菓子を買っておいてくれていて、袋の底にはいつも500円玉が入っていた。
僕の知っているおばあちゃんはよく笑う人で、カードゲームのUNOをやる時は孫たちに混ざって一緒にはしゃいでくれた。眼鏡の奥の目が優しかった。
三味線が上手で師範の資格を持っており、一度だけ見に行った舞台の上では着物姿で背筋を伸ばし、半眼で演奏する姿がとても格好良かった。
知り合いが多く、立ち話が好きな人だった。一緒に公園や買い物に行くと、すぐ道行く人から話しかけられて談笑が始まり、なかなか歩が進まない。母が小学生の頃、おばあちゃんが買い物に出かけたきりなかなか帰って来ず、心配して探しに行ったら、家の前で立ち話をしていたらしい(空の買い物籠を持って)。
階段から落ちて粉砕骨折をし、「もう二度と歩けるようにはならないでしょう」という医師の診断を受けたものの、しっかりと回復してまた元気に歩き回れるようになった。と、いうことが数回あった。
母曰く、若い頃は気性が荒くて怒ると手をつけられなかったらしいが、孫の僕にとっては優しいおばあちゃんだったし、快活で人気者な姿は誇らしくすらあったのを覚えている。
戦争とおばあちゃん
そんな麗子おばあちゃんは、現在の中国東北地方、かつて満州と呼ばれていた場所に生まれた。らしい。
以下の話は、小さい頃におばあちゃんや母に聞いた話の記憶を元にしているので、正確じゃないこともあると思う。でも、書いておかなければそれすらも風化してしまうので、書き記しておきたい。
おばあちゃんの両親(つまり僕の”ひいおじいちゃん”で、キミたちの”ひいひいおじいしゃん”)は経営者で帽子屋を営んでおり、家には何人もお手伝いさんがいるようなお屋敷に暮らしていたらしい。
つまり、おばあちゃんは「麗子お嬢様」だった。
しかし、おばあちゃんも第二次世界大戦に飲み込まれていくことになる。
詳しい経緯は知らないが、おばあちゃんは自ら志願して戦地に赴き、後援部隊の女学生として怪我をした兵隊さんたちの治療にあたったらしい。女学生といえば今で言う中〜高校生くらいの年齢だ。
不衛生な状態で怪我を放置すると、やがては炎症・腐敗を起こし、そこから感染症や毒素が全身に回り、やがて死んでしまう。そうならないようどうするか。腐りかけの腕や脚を切り落とすしかなかったそうだ。もちろん麻酔なんてない。切り落とした傷口には軟膏を塗って包帯を巻くのだが、軟膏といっても今でいうメンタムのような簡易的なものしかなかったそうだ。
もう一度言うが、当時のおばあちゃんは、中〜高校生くらいの年齢だ。もちろん医師免許はない。想像を絶する世界だ。
1945年に戦争が終わり、満州から日本に帰国した日本人は1946年5月から1958年7月までの間に約108万人に上り、これを「満州の引き揚げ」や「引揚事業」というらしい。この108万人の中に、麗子おばあちゃんも入っていた。
頭を丸坊主にして男装をし、男のふりをして船で帰ってきたらしい。
女性であることが様々な苦難の元になったのだろうと想像する。出航する港に辿り着くまでが命懸けだった、という話だ。
おばあちゃんはその後、「出兵の数日前」に終戦を迎えたことで出兵を免れたおじいちゃんと結婚し、3人の娘に恵まれた。
その2人目の娘が僕のお母さんであり、キミたちおばあちゃんだ。
1/8
僕が高校生の時、おばあちゃんが道路で自転車で転んだ、という知らせがあった。
道路に駐車していた自動車を避けようとしたら、思うようにハンドル操作ができず、よろけてしまったらしい。
それは、脳みそにできた腫瘍(癌)が原因で、その腫瘍は数年をかけておばあちゃんの頭を蝕んでいくことになった。
見た目にはいわゆる「ボケ(痴呆)」のような症状で、最後に病室で会ったおばあちゃんはボーっとしているように見えた。
おばあちゃんのお葬式が終わり、火葬場を後にする時、おばあちゃんが僕の名前を呼ぶ時の独特の明るいイントネーションがふと蘇り、思わず泣いてしまった。
そうやって生きたおばあちゃんのDNAが、キミ達には1/8入っている。
逆に、おばあちゃんがいなければ、僕もキミ達もこの世に生まれることができなかったし、昨日の誕生日会を一緒に喜び合うこともできなかった。
キミ達の命は、本当に尊い。