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誰もが、自分を満たしたくて

三連休の中日、外は暑くてコメダのモーニング以外どこにも出掛ける予定はないけど、食事中に思いがけないことがあった。

昨日までの数日間、自分の心のフタを開けて、親への不満や子供時代の不足を、しっかり目を開いて見た。

そして、ずっと否定してきた「人の弱さ」を受け入れることにした。できたのかどうか、よく分からないけど。

今朝になりコメダでコーンポタージュを飲んでいたら、不意に涙がこみ上げてきた。昨夜の息子の話を思い出し、そのことが引き金となって「人の行い自体に良し悪しはない。」と唐突に理解した。どういうわけかそれは、喜びの涙だった。

それぞれが、それぞれの体験に基づいて、分かる範囲のことをしていて、分からないことはできないだけなんだ。残念ながら、それが制限だとは普通は思わない。


いつものコメダモーニングで



昨夜の長男の話だが、義父が時々シャツやサングラスを買ってくれるという。ユニクロとかJINSで、義父にとっては孫への気軽なプレゼントなのだろうけど、息子は自分の好みを一切聞いてもらえないことに閉口している。

義父が強引なのを私もよく知っているので、息子の気持ちも分かる。こういうとき、義父は「これでいいから買う。」などと宣言して買ってしまい、人の話は一切耳に入らないので、こちらはどういう気持ちになればいいのか混乱してしまう。

義父はきっと子どもの頃にプレゼントなどもらったことがないのかもしれない。

義父の父親は関東軍で満州に送られ、戦後も何年もシベリアに抑留された。母親は夫の帰りを待たずに家を出たきり。義父は祖父母に育てられた。
顔も知らない父親を一人で横浜港に迎えに行ったとき、義父はわずか10歳だったという。
シベリアから帰還した父親は生きる意欲を失っていた。
義父は祖父母を介護し、祖父母と父親を看取ると高卒で就職して猛烈に働いた。

「サングラスは欲しいけど、このサングラスじゃない。」などという18歳の長男の言い分は、頭脳明晰な義父であっても、よく分からないのだろう。サングラスはサングラス。ただ自分が思いつく範囲で孫に必要なものを買ってやりたい。今すぐに。

買うことで満たされるのは義父自身であり、あるいは子どものころの義父なのかもしれない。本当の意味で義父が満たされない限り、孫を巻き込んだ買い物は多分止まらない。

しかし、そんなふうにしかできない不器用な義父のことを、私は否定する気になれない。ただ涙が湧いてくる。


弱い自分を受け入れず、周りの弱さも否定して、自分を満たそうとしていた私のやり方は、完全に間違っていたのだけど、あの頃の私にはそれしかできなかったのだ。私の母がそうだったように。


誰もが自分を満たしたくて、でもどうしていいか分からないのかもしれない。だから、そこに良い行いも、悪い行いもない。そう思ったら涙が出るのだ。親も、過去の自分も、全てを肯定できた喜びの涙だった。



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