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収集史料①:堀内敬三・富井恒雄書簡

 こんばんは。大学関係を中心に歴史史料を趣味で集めている東北大生のなんじゃもんじゃです。

 この記事を執筆し始めた一昨日、仙台は朝から雨でした。東北大学はおかげさまでキャンパス内の施設は大分使えるようになってきて、私も毎日川内キャンパスの附属図書館で勉強や読書をしているんですが、この日は暴風警報が出るほど風も強くて傘を差していても濡れそうなので(パソコン類も持ち運ぶし・・・・・・)、久しぶりに大学に行かず家で授業を受けました。2~5コマが連続の曜日だったので、結構疲れました・・・・・・。
 5コマ目が終わったところで雨が止んだので、夕飯くらいは楽をするかと考えて大学の学食へ。キャンパス内には折れた枝も落ちていて、天候の凄まじさを実感しました。その日のミールカードに手を付けていないのをいいことに、カレー南蛮うどんにチョコシュークリームと大盤振る舞いで食べました。

 さて、本題に入りましょう。史料紹介の第1回目です。初っ端から飛ばしすぎるのもどうかなあとは思いましたが、私の現在の手持ちの中でも特に話題性が高いと思われる『堀内敬三・富井恒雄書簡』を紹介したいと思います。
史料の名称は東北大学史料館所蔵文書検索システムを見て今決めました。

史料概要

堀内敬三①

堀内敬三②

 この史料は、仙台市にあった旧制第二高等学校の正門を映した絵葉書1枚です。消印からは1915(大正4)年7月7日(水)に仙台市で投函されたことが分かります。
 差出人は連名で仙台市の堀内敬三と富井恒雄、宛名は東京市の富井恒雄となっています。

収集経緯

 大学関係の絵葉書は古書店やインターネット上で売られており、これもネットオークションの中から発見しました。単なる大学の絵葉書であればほとんど常に市場に流通していますが、これは文面が書かれて郵便物として使用済みの、いわゆるエンタイアであり、後述する史料的価値を見込んで購入に踏み切りました。大体1000円ちょっとです。
 以前古書店の人に聞いてみたところ、よほどの偉人・有名人でない限り(お店の人が名前を知っていなければ、といった方が正確かもしれません)、この手の書簡類では書かれている内容を勘定に入れて値付けはされないそうです。エンタイヤというのも、純粋な絵葉書のコレクターにとっては、消印や切手が付いていることに付加価値を見出して用いる概念なんだとか。史資料狙いの身からすれば全く好都合な話です。

原文の翻刻

 翻刻と言うほど崩れた文字ではありませんが、まずは史料を文字起こししてみましょう。分からない文字には○を当てます。

宛名部分
東京市牛込区市ヶ谷加賀町二-三
伴野清君
仙台市国分町針久内
堀内敬三
富井恒雄
書簡文面
失敬。
昨夜無事到着しました。
当地は大〇〇寒い。修学旅行を思い出す。今日土井晩翠の家を見つけた。仙台は御承知の通り道が廣くて一体(ママ)にのんびりして東京へ帰るのがいやになる位さ。何故来なかったんだい。
ぢゃあ 失敬

解説

 まずは絵葉書のやりとりに関わった3人の経歴から見ていきましょう。

 堀内敬三(1897~1983)は戦前戦後に活躍した音楽家・評論家です。東京・神田にある浅田飴本舗の社長令息でした。
ドヴォルザークの『新世界より』の1楽章に日本語の歌詞を付けた『遠き山に日は落ちて』や、慶應義塾大学の応援歌『若き血』の作詞作曲で知られ、音楽之友社の社長・会長や、日本初のクイズ番組『話の泉』の回答者としても活躍しました。日本のクイズプレイヤーのはしりとも言えるでしょう。理系分野にも強く、音楽のために進学することを家から反対されたため、1917年に渡米してミシガン州立大学に入学。その後マサチューセッツ工科大学院で理学修士号を取得しています。

 富井恒雄(1897~?)は、本人の詳細な経歴については分からない部分が多いですが、関係する人物に付随する形で、大まかなプロフィールが見えてきています。東京帝国大学で民法を教え、立命館大学初代学長を務めたほか、穂積陳重や梅謙次郎と共に民法典を起草した事で知られる法学者の富井政章(まさあきら)の四男として生まれ、どこかは不明ですが帝国大学で法学を学んだ後、日本銀行の行員になった人物です。

 伴野清(1896~1990)は大蔵省の官僚です。東京帝国大学卒業後に入省し、中支那振興の副総裁や華北塩業の整理人等、大陸の国策会社に深く関わった人物ということが分かっています。渓水と号して俳句も嗜んでいたようです。

 さて、経歴を見る限り当時の上流階級層にいたことが分かるこの3名ですが、一体東北大学史にどのように関わるのでしょうか。

 ここで重要になるのが、私がこの絵はがきを買うきっかけになった堀内敬三のウィキペディア内のこの記述です。

第二高等学校(現:東北大学)の受験に失敗して浪人生活を送っていたとき、1916年(大正5年)、小林愛雄、大田黒元雄、野村光一、菅原明朗たちと共に岩波書店から日本最初の音楽批評誌『音楽と文学』を創刊。
                     Wikipedia『堀内敬三』より

 実は堀内は渡米する以前に東北大学の前身の一つである旧制第二高等学校を受験していたというのです。実際、葉書の消印は大正4年の7月になっています。旧制の高等学校は現在の大学の教養課程にあたる教育機関であり、現在の高校にあたる旧制中学校を卒業した若者が入学する仕組みになっていました。始業は9月からであり、7月の入学試験に合格した者が入学したため、日付もちょうど入試のために仙台に入った際の絵葉書と考えれば辻褄は合います。ちなみに、戦前の教育制度では旧制高校に入学すれば事実上帝国大学への入学が保証されていたため、受験熱は大学の入学試験よりも過酷なものだったそうです。
 Wikipediaの文章だけでは信憑性に心許ない部分もありますが、実際にそれをこのように裏付ける史料が出てきていることも合わせると、これは第二高等学校の受験生(しかもうち1人は不合格者!)の姿をとらえる貴重な品です。これが東北大学史におけるこの史料の立ち位置となります。

 そして、堀内と富井が連名でこの葉書を出している理由もこの辺りの事情や生年の近さから察せられます。彼らは中学校の同級生なのではないか? ということです。

 先ほどのWikipediaや堀内の著作を見ると、東京高等師範学校附属中学校出身であるとの記述があります。現在の国立筑波大学附属中高の前身です。

 そして、富井恒雄についても、全く別の人物の経歴から彼の名前が出てきました。渋沢栄一の孫で、彼の後継者として大蔵大臣や日銀総裁を務めた渋沢敬三です。

1917(大正6)年 満21歳
清水正雄、小林正美、富井恒雄、近藤経一等と粟野教授を介し米ヶ袋上町デニング旧邸を月15円にて借用、桐寮と命名し移転。
               渋沢敬三アーカイブ『渋沢敬三年表』より

 ここで述べられている『粟野教授』とは、第二高等学校の英語教師であった粟野健次郎、『デニング』とはこちらも第二高等学校の英語教師ウォルター・デニングのことです。渋沢敬三年表を遡ると、彼も高師附中の出身であることが分かります。また、デニングのWikipediaにはより詳しく『米ヶ袋上丁41番地の旧宅は1917年(大正6年)頃渋沢敬三・近藤経一・富井恒雄等高等師範学校附属中学校からの二高進学者の自治寮として使われ、桐寮と呼ばれた。』という記述も見つかりました。現在の筑波大学の前身である東京高等師範学校や、その系列校は校章に五三桐を使っていますから、それにちなんだネーミングなのでしょう。そして堀内とは異なり、富井は第二高等学校に合格したことが読み取れます。
 ちなみに、渋沢も彼らと同時に旧制二高を受験していますが、アーカイブには『1915(大正4)年 満19歳 7月 仙台・第二高等学校(以下、二高)受験。試験前日、広瀬川に泳ぎし者、皆合格。』とあります。仙台市内を流れるあの広瀬川を泳ぐというだけでも想像がつきませんが、試験前日にそんなことで余裕をかましておきながら合格するとは、流石としか言いようがありません。

 これらの記述から、3人(少なくとも堀内・富井の2人)は高師附中の同級生で、旧制高校を受験に訪れた際に、東京の伴野の家に宛てた手紙だということが分かります。そこで、これを前提としてさらに解釈を深めていきます。

 まずは宛所の伴野について。彼自身もこの時は別の旧制高校を受験していたのでしょう。人名録等では最終学歴しか確認できなかったので、入学した高等学校ははっきりしませんが、文面を確認すると仙台が東京と比べてのどかな街であることや、何故仙台に来なかったのかと問いかける内容が含まれていることから、伴野は東京に残る選択をしたように読み取れます。つまり彼は、東京大学教養学部の前身にあたる旧制第一高等学校を受験していたのではないかというのが私の予想です。

 また、堀内と富井は仙台に到着した翌日に、土井晩翠の家を見つけたと書いています。所在を知っていて見に行ったのか、たまたま発見したのかは定かではありませんが、2人の芸術的な関心をうかがわせる内容です。晩翠は『荒城の月』の作詞で有名な仙台出身の詩人ですが、東京帝大卒業後しばらくして帰郷し、旧制二高で英語教授として勤務していました。現在も2人が訪れた大町の邸宅は晩翠草堂として残されています。

 そして、2人が泊まっていた針久とは、大正時代頃に仙台にあった旅館です。絵葉書の差出先にも書かれている東北一の繁華街・国分町に構えた本店から始まり、最盛期には仙台駅前に支店と別館を、東京にも支店を構えた仙台随一の旅館チェーンでした。こちらに詳細が載っています。国分町のどこにあったのかについては直接書かれた資料が見つかりませんでしたが、仙台市の金英堂薬局についての記事にこのような記述があります。

今のうちの向かい側(現「猪俣ビル」)は、七十七銀行だったわね。格子戸があって、小学校みたいな建物だったなあ。国分町は奥州街道だったから、戦前は旅館がたくさんあったの。菊平旅館、大泉旅館、針久旅館、瀬戸勝旅館とね。戦中は兵隊さんや立派な将校さんなどのお客さんが行き来していましたよ。

今のこの金英堂の土地は、針久旅館があった場所を、終戦後、隣の中嶋堤灯やさん(現「満州飯店」)のお世話で買ったの。焼け跡からは、針久さんが戦中に埋めたらしい瀬戸物が出てきたのよ。
『金英堂薬局と国分町  大内エイ(大正元年生まれ)』より

 針久は太平洋戦争中の仙台空襲(1945年7月10日)によって焼失したようです。これを元に現在の金英堂薬局の位置を見てみると、晩翠草堂までの道のりはこのようになります。

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 国分町通沿いに広瀬通を横切り、青葉通に突き当たるルートです。まっすぐ向かったわけではなく、散歩がてら立ち寄ったのかもしれませんが、彼らの足取りを理解する助けにはなりそうです。また、南下した先には大学本部や附置研究所、そして東北大学史料館が位置する東北大学片平キャンパスが控えています。戦前はここに第二高等学校も存在していました。2人がいよいよ入学試験を受けに行く時も、この道を歩いたのかもしれません。

 もう一つ面白いのが―もう気づいている方もいらっしゃるかもしれませんが―住所に書き損じがあるところです。

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 『国分』の後に×で消している文字が見えますが、よく見ると『寺』であることが分かります。『国分寺町』と書いた後で、誤りに気づいて手直ししたのでしょう。日本史の知識としての国分寺や、あるいは地元東京の地名である国分寺と混ざったのでしょうか。現在の23区民に相当する生粋の東京市民であっただろう彼らが、多摩地方の国分寺を『地元』と捉えていたかは定かではありませんが・・・・・・

 最後に、裏面の写真について。
 最初に述べたように、これはかつての第二高等学校の正門です。第二高等学校の絵葉書には大抵ここが映されており、学校のシンボルであったことがうかがえます。一旦別の場所に移されたそうですが、現在は元々あった片平キャンパスに戻されています。

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2020年12月 筆者撮影。

 写真のような鎖は高等学校があった当時も備え付けられており、これが掛けられている間は、跨いで入ることは可能でも、マナーを守って決して生徒たちは通らなかったそうです。このことを由来として、正門は別名『道徳門』と呼ばれていました。こちらの記事に詳しいです。

まとめ

 ここまで、史料から読み取れる内容、そしてその背景について考察してきましたが、この史料の注目に値する点は、旧制高等学校の受験生の実態の一部を映していることと、特に堀内敬三の人物史を裏付ける史料であることの大きく2つに集約できます。

 例えば、東北大学史料館をはじめとする大学アーカイブズでは、大学の教員や学生に関係する史料は豊富に収蔵されているものの、受験生関係の史料はそれらに比べれば圧倒的に少ないです。これは私見ですが、その受験生がもし合格すれば、元学生という立場から史料を大学アーカイブズへ寄贈するきっかけは生まれますが、大学時代の日記や書類が手元に残ることは多くても、それ以前に彼らが受験生として過ごす期間は相対的に短いものです。要するに、『大学生』という言葉が肩書きの一種であるのに対し、『受験生』とは一時の状態を指した言葉であるということです。その上不合格者ともなれば、今回の堀内のように、その時点で受験校との縁が切れるというケースも多いでしょう。それが史料の少なさの原因ではないでしょうか。

 しかし、この絵葉書が第二高等学校の不合格者のものであるということが分かっているのは、ひとえに堀内敬三の知名度やそれに伴う文献の多さに依ります。これは史料を調べる上で幸運なことであったと同時に、音楽家・評論家の堀内敬三個人の人物史においても重要性を秘めています。

 調べを進める中で、Wikipedia以外の文献から堀内が二高を受験した事にまつわる記述を探そうと思い、私は堀内敬三の随筆集2冊(『ヂンタ以来 復刻版』1977年 音楽之友社、『夢の交響楽 わが随想かくのごとし』1998年 音楽之友社)と、彼の没後に息子の堀内和夫によって書かれた伝記(『「音楽の泉」の人、堀内敬三 その時代と生涯』1992年 芸術現代社)を借りて、内容をあたりました。
 いずれも東北大学附属図書館の蔵書には無かったため、青葉山キャンパスの隣にある宮城教育大学の図書館から取り寄せました。他の大学から図書を取り寄せる際には郵送代等で手数料がかかるのですが、近場の宮教大からの取り寄せは無料でできるので、こういうときにとても役に立つのです。

 そしてこれら3冊を調べた結果、記述はそれぞれ1ヵ所ずつから見つかりました。ただ、『「音楽の泉」~』の中では一文、昭和4年に現在の東北大学にあたる旧制第二高等学校を受験して失敗したという記述に止まり、もう1つは『ヂンタ以来』収録の『「音楽と文学」の頃』に『小生は高等学校の入学試験に落第して是れ幸と遊んで居た』と、どこの高等学校かも分からない形で出てくるだけです。残り1つは『夢の交響楽~』収録の『音楽に目覚めた頃』でしたが、これは『「音楽と文学」の頃』と同じ内容でした。当人が小話を交えながら自分の経歴を綴った随筆『私の履歴』も『ヂンタ以来』に載っていたのですが、ここでは東京高等師範学校附属中学校を卒業して3年後に渡米し、ミシガン州立大学に入学したという内容しか書かれていません。まあ、わざわざ受験して受からなかった学校のことを自分の経歴として言及することも少ないでしょうし、自然なことではありそうです。

 だからこそ冒頭で述べたように、この絵葉書が堀内の二高受験を裏付ける史料として重要になるわけです。もし堀内が第二高等学校に合格していれば、国内の帝国大学に進学して違う道を歩み、今日に伝わる彼の業績も異なるものになっていたかもしれません(もちろん、幼少期から人脈に恵まれて当時最先端の音楽に親しみ、ミシガン卒業後も『この程度の学問では心細い』とMITに院進するような行動力の人ですから、どこにいても音楽で大成した気もしますが)。
 このような観点から、この絵葉書は彼の人生の分岐点を象徴するものでもあるのです。


 今回はここまでです。最後までお付き合いいただきありがとうございました。いかがだったでしょうか。このような史料の収集を始めたのは去年の秋からで、まだくずし字や昔の言葉遣い等も勉強中の身ではありますが、1枚の古い絵葉書をここまで突き詰めて調べるというのはとても楽しい経験でした。これ以外にも、まだまだ面白い資料はたくさんありますし、史料の面白さのうちの幾分かは、それを調べる読み手が引き出すものという気もします。少しずつご紹介していきたいと思います。

 それとは別に、参考文献として揃えた堀内敬三の随筆集も、読んでみるととても面白いと言うことにも気づきました。こちらも、読書感想文的に記事にできたらしようと思います。外部から取り寄せた図書は返却期限が早めなので、そこに気を付けないとですが。

 それでは、次回もお楽しみに。

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