木菟と髪切り

冬堂美子は鏡台の前で、鼻歌混じりに髪を結っていた。
腰まである黒髪を、手際よく纏めてすっきりと結い上げていく。
鏡を覗き込んで微笑んだ顔は、薄化粧に映えていた。
今日、彼女の機嫌がいいのには理由がある。木菟と一緒にデパートの新年初売りセールを見に行く約束をしているのだ。
『経凛々さんの洋服も、あれだけではいけませんからね』
木菟はそう言って笑っていた。
「…あ、そうだわ。」
美子は鏡台の引き出しを開け、玉のついた螺鈿のかんざしを取り出して髪に挿した。
このかんざしは、美子が母親から譲り受けた彼女の宝物である。そのため、本当に大切な時しか身につけない。
「よし、完璧ね。」
美子はふわふわとした気分で六花を出、ドアにプレートを掛けた。
表示は勿論『close』で。

待ち合わせ場所の駅前には、和装でめかし込んだ人々が溢れていた。
「先生、遅いわね…。」
意外と時間にルーズな方なのかしら?
美子は溜息をついた。
その時、彼女の携帯が鳴った。
急いで取り出すと、液晶には「先生」の二文字が表示されていた。
「もしもし?」
嫌な予感と共に電話に出ると、かなり困った様子の木菟の声が耳に飛び込んできた。
「あ、美子さん?よかった、繋がった!」
「先生!どこにいらっしゃるの?」
「いや、それがですね…。」
心配そうに答えた美子に、木菟は心底申し訳なさそうな調子で言った。
「…すみません、警察の方に捕まってしまいました。」
「えぇ⁉」
驚く美子。木菟は尚も続けた。
「申し訳ありませんが、身元の保証人として今から来てくださいませんか?」
「それはいいですけど…。一体何をおやりになったの?」
木菟の声は慌てた。
「私は何もしてませんよ!冤罪なんです。」
電話の向こうで男の怒声が聞こえた。どうやらどやされているようだ。
「と、とにかくできるだけ早くお願いします、すみません…。」
電話はそのまま切れた。
美子は深々と溜息をつき、とぼとぼと歩き始めた。

「あんたがあの自称小説家の?」
美子が署に着くと、白髪混じりの髪に短い無精髭といった草臥れた雰囲気の男に迎えられた。年の頃は40歳程。
「こんなべっぴんさんが奥さんとはな。あの男も隅に置けないね。」
「あら、私先生の奥さんなんかじゃありませんわ。」
男は変な顔をした。
「…それじゃ、関係は?」
「彼は私のお店の常連ですのよ。」
「はぁ?…全く、どこの世界に自分の身元の保証人として行きつけの店の店員呼ぶ奴がいるんだよ…。」
男は呆れたようにかぶりを振ると、再び美子を振り返った。
「取り敢えず、深山龍二郎だ。よろしく。」
「はあ…。」
深山に案内されるままに歩いていくと、ドラマで見るような面会室に着いた。
「あの男は知り合いで間違いないのか?」
深山の指差す先には、ガラス越しに頭を抱えている木菟の姿があった。
「先生!」
木菟は美子の声を聞くと、勢いよく顔を上げた。
そして心の底から安心したように笑った。
「美子さん!良かったー、聞いてくださいよ、取り調べっていうからてっきりカツ丼でも出るのかと思ったんですけど、聞いたら出前は自腹だって言うじゃないですか。全く、ドラマと違うんで焦りましたよ…。」
「べらべら喋るな、黙れ!」
深山の胴間声が面会室に響いた。
「てめぇは事件の事だけ話せ!」
身をすくませていた木菟は、不満そうに目を逸らした。
「ちょ、ちょっと待ってくださいな。」
美子が深山と木菟の間に割って入った。
「彼が何をしたと仰るの?私まだ事件のお話を聞いていませんわ。」
深山は顎をしゃくった。どうやら座れという事らしい。
美子は用意されていたパイプ椅子に腰掛けた。
「いいか、奥さん。」
深山が言いかけると、横から木菟が口を出した。
「あ、その方、私の妻ではありませんよ。」
深山は木菟を睨みつけた。
「分かってら!さっき本人から聞いたよ。」
また身を竦ませた木菟を一瞥してから、深山は再び話し始めた。
「最近この辺りで頻発している、連続通り魔事件を知っているか?」
美子は首を傾げた。
「そうだろうな。あまり大きく報道はさせていないから…。」
「通り魔ってことは、傷害ですの?」
「一応、傷害になるかな。ただちょっと、妙なところがあるんだが…。」
「妙?」
深山は眉間に深く皺を刻んで頷いた。
「犯行の手口がな。ターゲットは女性ばかりで、被害者は皆自分の気付かないうちに髪を切り取られているんだ。長かった髪はばっさりと、肩くらいまで。」
「まあ、髪を?」
美子は思わず自分の髪に触れた。
「先程、通報があってな。この男が女性の髪に触れているのをたまたま見た捜査員が、その場で現行犯逮捕してきたんだ。」
「先生、女の人の髪を触っていたんですの⁉」
美子は驚いて木菟に尋ねた。
「それは誤解です!私は髪に付いた虫を取って欲しいと頼まれて…。」
「苦しい言い訳をするな!」
深山が面会室の仕切りガラスをバンと叩いた。その場にいた全員が、同時に身を竦ませる。
「本当ですって…。女性グループが何やら騒いでいたので、どうしたのか聞いてみたら髪に大きめの虫が付いたとのことで…。」
木菟は頭を掻きながら言った。
「ねえ、刑事さん。先生は理由もなく人を傷つけるような方ではありませんわ。彼を放してくださらない?」
美子は深山を見上げた。
「プライベートだったらね。あんたみたいな綺麗な子の言う事なら何でも聞いてやるけど、生憎これは仕事だ。」
「そんな…。」
美子は肩を落とした。
「で?何か他に言う事は?」
「…。」
黙って俯いている美子を横目で見て、深山は咥え煙草に火をつけた。
「ないなら帰んな。身内でもないあんたができる事は何もないぜ。」
美子は木菟をちらりと見た。
その視線に気付くと、木菟は微笑んで言った。
「大丈夫ですよ。私は無実ですから。それまで経凛々さんにエスコートしてもらってください。駅で待つよう、連絡はしておきます。」
美子は頷き、深山に連れられて警察署を出て行った。

「あんた、あの男に気があるんだろ。」
別れ際、深山はニヤニヤと笑いながら言った。
「何ですの、いきなり。」
美子の語気は、深山に自らの狼狽を悟られまいとして無意識のうちに強くなっていた。
「ああ、隠さなくていいよ。俺は刑事、それくらい見てりゃ分かるさ。」
咥え煙草を噛み潰し、深山は美子にずいと詰め寄った。
煙草の匂いが、美子の鼻腔をつんと刺激する。
「安心しな、あいつは二度と出さんからな。」
「…!」
美子は熱り立った。
無言で踵を返し、経凛々の待つ駅へと足早に向かう。
「もう少ししっかり別れの挨拶をしておかなくて良かったのか?」
唇を噛んで、逆らってしまいそうな自分を抑えながら、美子は深山を無視してその場を後にした。

駅の改札前で、周囲をきょろきょろと見回している黒いコートの男がいた。
男は美子の姿を見つけると、表情をパッと明るくして嬉しそうに駆け寄ってきた。
彼の見た目に似合わないその仕草を見ると、美子の沈んだ胸は少しだけ軽くなった。
「経凛々さん、お待たせしたかしら?」
「いえ、全然。」
経凛々は眼鏡をずり上げた。
「事情は木菟先生から聞いています。ご安心ください、彼ならきっと大丈夫です。」
「お気遣いありがとうね、経凛々さん。」
美子は微笑んだ。
「ところで、冬堂さん。」
「何?」
経凛々は小首を傾げ、自分の髪の後ろを撫でた。
「髪。お切りになったんですね。」
美子の思考回路が一時停止した。
アップにしているとはいえ、髪の量が多いのは見て分かるはずだ。
それに、今日はかんざしだって…。
美子は後ろ髪に手をやった。
感じたのは、さらりと下された髪の感触。
「…えっ」
慌てて両手指を髪に絡ませた。
いつもは長く絡みついてくる髪が、途中ですとんとなくなっていた。
大事なかんざしもない。
「…噓、噓でしょ」
美子は慌てて手鏡を取り出し、自分の姿を映した。
鏡像の美子は驚いたように目を見開いて、セミロングの髪を掻き上げていた。
「どうかされました?」
経凛々が心配そうに、美子の顔を覗き込んだ。
美子は短くなった髪を掴んだまま、首を振った。
「いえ。ただ、あの横暴な刑事さんをやっつける材料を見つけましたのよ。」
そう言って、美子は微笑んだ。

美子は経凛々を連れ、再び木菟の勾留された建物にやってきた。
「深山龍二郎刑事にお会いしたいのですけれど。」
受付の男は訝しげに美子の顔を覗き込んだ。
「許可証は?」
美子は少し考えて、経凛々の髪を崩して眼鏡を外した。
「後はお願いしますわ。」
「え?」
木菟そっくりになった経凛々を突き飛ばして走らせ、美子は言った。
「連続通り魔事件の容疑者が脱走しましたわ!」
「何だと⁉」
男は経凛々の顔を見た。
風変わりな容疑者木菟の容姿は、署内でも有名になっていたらしい。
「…本当だ、あいついつの間に!」
男は周囲の職員を呼び集め、束になって経凛々に飛びかかっていった。
署内が手薄になったその隙を狙い、美子は木菟のいる建物奥へと走った。
替え玉作戦が幸いして、扉の番をする人間がいない。取調室の戸を手当たり次第に開けていく。
「先生!どこ⁉」
無我夢中で走り回っていると、角を曲がってきた何者かとぶつかった。
「あっ、ごめんなさい…。」
見上げると、仁王立ちしている深山と目が合った。
「よく会うじゃねぇか、奥さんよ。」
彼は美子に手を差し出した。
美子はその手を振り払い、服についた埃を払って立ち上がった。
「釣れないね。そんな怖い顔しなくたっていいだろう?折角のべっぴんさんが台無しだぜ。」
深山は笑いかけたが、美子のただならぬ様子を見て緩みかけた頰を引き締めた。
「あんた、髪どうしたんだ。さっきは結わえてたじゃないか。」
美子は深山をキッと睨みつけた。
「髪切りの被害に遭いましたのよ。自分では気づかなかったけれど、連れに指摘されて初めて気付きましたの。」
「髪切り?冗談だろ、容疑者は確保してある。」
「するとおかしいですわ、私が被害に遭う筈がないんですもの。深山刑事、あなたが誤認逮捕をした訳でなければ。」
深山は少し慌てた様子だったが、すぐ何かに気づいたようにニヤリと笑った。
「…分かったぞ、奥さん。それ、自分で切ったな?」
「まあ、何ですって⁉」
深山は煙草を咥え、続けた。
「いじらしいね。好きな男の為に、女の命とも言える髪を切る。しかもそんなに無造作に。」
「ふざけるのもいい加減になさって!」
美子は叫んだ。
「先生はどこ?あの人は無罪よ!」
「そう思いたい気持ちは分かるがね。残念だが諦めるんだな…。」
深山が美子の肩を掴んだ、その時。
「あっ、美子さぁん。来てくださったんですか?」
その場に不釣り合いなほど能天気な声が響いた。
美子が深山越しに見たのは、嬉しそうに笑って手を振る木菟だった。
「あっ、貴様!どうやって部屋を…。」
木菟は懐から鍵を取り出し、微笑んだ。
「目の前で落とされましたから、てっきり私に下さったのかと。」
深山ははっとして、ズボンの尻ポケットを探り、眉間に皺を寄せた。
「…スペアキーがねぇ」
はああっ、と溜息をつき、深山は木菟から鍵をひったくるようにして奪い取った。
「先生!」
美子は木菟に駆け寄り、その体にぴったりと寄り添った。
「いやぁ、ありがとうございます。美子さんが来てくれたお陰です。」
「いえ…。」
そこで初めて、木菟は美子の髪が短いのに気づいたようだった。
「あれ、美子さん。髪、どうされたんです?」
「ええ。それが、私も通り魔に遭ったようなんですの。」
「何と…。」
木菟の表情が険しくなった。
「刑事さん。誤認逮捕なんかしてる場合じゃありませんよ。早く真犯人を捕まえてください。」
木菟は美子の切られた毛先をしばらく見ていたが、ふと彼女の背中から何かを摘み取った。
「これは…。」
それは黒く短い毛だった。
美子の髪ではなく、何かの動物の毛のようだった。
「黒い獣毛…?」
木菟は何か考えるような仕草を見せた。
「先生、何か心当たりがおありですの?」
美子は首を傾げた。
「黒い毛、髪切りといえば…。1つだけ。」
木菟はネタ帳を取り出し、経凛々の描かれたページの横に黒い熊のような生き物を描いた。
「『黒髪切り』。女性の髪を噛み切って食べてしまうと言われる妖怪です。」
「はあ?妖怪だって?」
半笑いで言ったのは深山である。
「洒落臭い事言ってんじゃねぇよ、小説家さん。世の中の事件が全て妖怪の仕業だったら、警察なんざいらねぇんだよ。どうせなら、もっとマシな噓をつけ。」
木菟は困ったように美子を見た。
「どうして信じてもらえないんでしょう…?」
「ふ、普通は信じてもらえないと思いますわ。…ところで先生。髪切り事件の犯人は、黒髪切りの仕業で間違いありませんの?」
木菟は苦笑した。
「いえ、それは…。私も犯行の現場を見ていた訳ではないので。」
「そら見ろ、証拠も無いじゃないか!」
鬼の首を取ったように言って、深山は木菟の肩に寄りかかった。
「残念だったなー、先生さんよ。」
木菟はネタ帳を握り締めた。
「いや、待ってください。」
「あ?」
「私に少しだけ、時間をください。必ず真犯人を見つけてみせますから。出来なければ逮捕でも何でもしてください。」
深山は木菟の真剣な眼をしばらく見ていたが、やがてニヤリと笑い頷いた。
「…そういうギャンブルは大好きだ。いいだろう。」
「まあ、警察の方がそんなでいいんですの?」
美子は呆れたように深山を見た。
「いいんだよ。俺だってずっとカタく仕事ばかりやってちゃ息が詰まる。たまにはゲームといこうじゃないか。」
「何だか嫌な言い方ね。」
美子は深山の一挙手一投足を快く思わないようだった。
すっかり気分を悪くした様子の美子を宥め、木菟は深山に向き直った。
「ゲームと仰るからには、何か条件があるのですね?」
「鋭いじゃねえか。」
深山は小馬鹿にしたように言った。
「あんたの行動は俺が監視する。妙な小細工はできないようにな。それと、制限時間は現時点から24時間だ。」
木菟は頷いた。
「分かりました。ただし、私の計画には何やかやと口出しをしないでくださいね。」
「よし。交渉成立だな。」
深山は木菟らを手招きで呼んだ。
騒ぎにならないよう、裏口かどこかから出るつもりらしい。
木菟と美子は、深山について建物を出た。

木菟は美子と深山を自宅に上げ、茶を出してもてなしていた。
「ここはお茶が美味しいですからね。」
「うん、茶は確かに上等だがな…。」
深山はうず高く積み上げられた原稿の山を見て、溜息をついた。
「部屋、もう少し何とかならねぇのか?ぶしょったいな。」
「すみません、男二人と蜥蜴の二人一匹暮らしなもので。私にも妻がいれば、少しはせいせいするんでしょうね。」
苦笑した木菟を見て複雑な表情をした美子に、深山はニヤニヤしながら耳打ちした。
「何だ、この先生はコッチなのか?」
右手の甲を左頬にくっつけ、それじゃあ見込み無しだなぁ、と笑う深山。
美子はかっと顔を赤くした。
「失礼ね、何仰るの!」
「へへ、図星か?」
美子はふくれっ面をした。
「お二人。仲良くしてください。」
携帯を耳に当てたまま、木菟は睨み合う美子達二人に言った。
「電話中なので、静かにしていただけますか…あ、もしもし。」
携帯がスピーカーモードになっているらしく、電話の相手の声が部屋の中に響き渡った。
『あぁ?何だよ新年早々電話なんかしてきやがって!』
「元気そうですね、晴明さん。」
木菟は微笑んだ。
『うるせぇなおっさん!…ま、ウチで正月やってても楽しかぁねーからいいけどな。』
スピーカーから流れる晴明の声を聞いて、深山がピクリと眉を寄せた。
「どこかで聞いた声だな…。」
「そんなはずないでしょ?黙っていてくださらない?」
「言うじゃないか、美子ちゃんよ。」
「馴れ馴れしいわ。」
また始まった口喧嘩を尻目に、木菟は電話口の晴明に話しかけた。
「…えっと、晴明さん。」
『何だよ?』
「突然ですみませんが、今からこちらに来られませんか?」
『えー?別にいいけど…。どしたの?』
「手伝って欲しい事があるんです。」
木菟は電話を切った。
そして、美子を振り返って尋ねた。
「美子さん。ああいうの持ってませんか、あの、髪の先にくっつけて長くするやつ…。何て言うんでしょう?付け毛?」
「ああ、エクステンションの事ですわね。それなら前にお友達から貰ったものがありますわ。尤も、髪は元々長かったから一度使ったきりですけど。」
木菟は満足げに頷いた。
「十分です。それでは、そのエクステンションとやらと要らないような服を貸してください。」
「分かりましたわ。」
美子は立ち上がり、その場を去った。
残された深山は煙草を咥え、火をつけた。
そして煙草の箱を木菟に差し出し、軽く振った。
「吸うか?」
木菟は首を振った。
箱を胸ポケットにしまい、深山は深々と煙を吐き出した。
「…なぁ、先生さんよ。あんたの考えてる事は分からないが、本気で犯人挙げるつもりなのかい?」
半分ふざけたような今までの調子とは全く違う、真面目な様子で深山は尋ねた。
木菟は目を閉じ、ゆっくり頷いた。
「ほう、えらいやる気だな。」
「当然です。美子さんを傷つけた罪は重いですからね。」
閉じた時と同じようにゆっくりと開かれた木菟の眼は、猛禽のように鋭かった。

暗い夜道を、白いコートを着た髪の長い女が歩いている。
俯き加減で、ヒールの音を高く響かせながら早足で歩いていく。
ふと、夜風になびく髪に何か黒光りする細長い虫のようなものがとまった。
見慣れないフォルムのその虫は、強いて言うなら「髪切虫」に似ていた。
虫は髪に取り付いたままもぞもぞと動き、やがてその背が割れて黒い毛の塊のようなものが出てきた。
その黒い物はみるみるうちに大きくなり、女の背中におぶさる形になっていく。
そして頭部がぱっくりと割れ、獅子舞のような歯の付いた口が姿を現した。
現れた口が女の長い髪にむしゃぶりついた、その時。
「今です。晴明さん、どうぞ。」
どこからともなく声がした。
黒い塊の動きが止まる。
同時に、塊に髪を食われていた女が勢いよく振り返った。
「貴様か、女将の髪を台無しにしたのは!」
まばらに切れた髪を振り乱し、怒声を轟かせたのは晴明であった。
背中から黒い塊を振り落とし、履いていたピンヒールでぐりぐりと踏みにじる。
「おいおっさん!こいつが黒髪切りとかいうやつか?」
「そのようですね。よくやってくれました、晴明さん。」
道の傍の茂みから、木菟が微笑みながら現れた。
それに続いて大層驚いた様子の美子、驚きのあまり開いた口が塞がらないらしい深山が出てくる。
「こりゃあ…。何てこった。」
深山はピンヒールの下敷きになっている黒髪切りの近くでしゃがみ込んだ。
「先生さんよ…。正直上手くいくとは思ってなかったぜ。男子学生に女装させて囮にするなんて。」
「ええ。黒髪切りが馬鹿で助かりました。」
木菟は黒髪切りに近付き、話しかけた。
「このままどこか別の所へ行ってくれますか?」
黒髪切りは奇妙な唸り声を上げ、素早く晴明のピンヒールから逃れて木菟に飛びかかってきた。
「おっと…。」
木菟は顔を顰め、これまた素早く深山を盾にした。
「えっ⁉…しゃーねーな、必殺正拳突き!」
深山の手刀が黒髪切りの腹にめり込む。
すると黒髪切りは断末魔のような呻き声を上げ、地面に叩きつけられて息絶えた。
「わあ、流石は刑事さんです。」
木菟は小さく拍手をした。
しかし黒髪切りが息絶えたのは深山も予想外だったらしく、彼は戸惑ったように頭を掻いた。
「え、いや…。俺って意外に強い?」
すると、黒髪切りの亡骸を見ていた美子があっと声を上げた。
「先生、これ!」
彼女の指差す先には、黒髪切りの身体を貫いている螺鈿のかんざしが光っていた。
「これ、私の挿していたかんざしですわ。髪と一緒に食べられていたのね…。」
「なるほど。それが刑事さんの正拳突きの衝撃で黒髪切りの身体を貫いた…と。」
木菟は微笑した。
「私達は、美子さんのかんざしに守られたのですね。」
美子はかんざしを拾い上げ、そっと胸に抱いた。
「刑事さん。これで事件は解決ですね。」
深山はばつが悪そうに木菟を見た。
「悪かったな。あんたの事は正直馬鹿にしていた。」
「大丈夫ですよ、気にしてませんから。」
「そうかい。」
深山はニッと笑った。
「さて、感謝状でも申請するかな…。」
すると、木菟は首を振った。
「私は要りませんよ。出すなら囮になってくれた晴明さんに出してあげてください。」
「そうか?それじゃあお前、ちょっと来い。」
深山は晴明を手招きで呼びつけた。
晴明はそれに従い、深山を見上げた。
「…ん?ジジィお前どこかで…。」
晴明がまずいと言わんばかりに後ずさったのと、深山が彼の肩を掴んだのはほぼ同時だった。
「フン、とうとう捕まえたぞ、世紀のクソガキめ!」
「くっそ、放せよクワガタジジィ‼」
木菟と美子はぽかんとして二人の取っ組み合いを眺めていたが、ふと我に返って慌てて仲裁した。
「どういう事です刑事さん、晴明さんとお知り合いだったんですか?」
木菟が深山にしがみつきながら尋ねる。
「知り合いも何も、元担当だ!」
深山は木菟を吹っ飛ばし、スーツを払った。
「担当?どういう事ですの?」
晴明を押さえていた美子も、首を傾げて尋ねた。
目を逸らして口籠った晴明を見て、深山は大声を上げて笑った。
「何だ、自分で言えねぇのか!それじゃあ俺が言ってやるよ。」
「おいジジィ、やめ…!」
ズボンにしがみついた晴明を完全無視して、深山は言った。
「こいつはな、俺が少年課だった時に担当していた有名な悪ガキなんだよ。捕まえたと思ったらその場に上着一枚残して逃げるもんだから、『式神の安倍晴明』なんて通り名が付く程でな。」
「式神の安倍晴明…。」
木菟はくすくすと笑った。
「笑ってんじゃねーよおっさん!」
顔を真っ赤にして、晴明は怒鳴った。
「上の名前、安倍君だったのね。いつも名前呼びだったから、聞く機会なかったわ。」
「女将まで…。」
頭を抱えた晴明を、深山は後ろから羽交い締めにした。
「貴様を捕まえられずにずっと手こずってたせいで俺は少年課から飛ばされたんだよ。さ、署までご同行願おうか?」
「嫌だね!掴んで離さないだけのクワガタジジィに捕まってたまるかよ!」
晴明は掴まれていた白いコートを脱ぎ捨て、長いスカートをたくし上げて走り出した。
「あっ、あんにゃろ!また式神残ししやがった!」
追いかけようとした深山の手を、木菟が掴んだ。
「何だよ先生、どうして止めるんだ?」
「逃がしてあげてくださいよ。私に免じて。」
深山は不服そうにしていたが、仕方ないといった様子で頷いた。
「しゃーねーな。感謝状の代わりだ。どうせもう管轄外だしな。」
「ありがとうございます。」
木菟はほっとしたように微笑み、美子に向き直った。
「遅くなってごめんなさい。初売りセール、今からじゃ間に合いませんかね…。」
着物の袖をまくって時計を見、困惑した表情を浮かべた彼の肩をぽんと叩いて美子は笑った。
「大丈夫。まだ間に合いますわ。」
木菟は頷いた。
「良かった。経凛々さんの服が手に入りますね。」
「経凛々さん…?」
そこでやっと、美子は経凛々の存在を思い出した。
ごめんなさい、経凛々さん。でも、このイベントだけは譲れないの。
鈍い先生と二人、それだけで満足なの。
お詫びに素敵な服を、沢山買っていってあげるから…、今日だけ許してね。
新年早々苦労しているであろう彼に、美子は心の中で詫びて舌を出した。

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