木菟と経凛々

その日木菟は久々に筆を執り、新たな作品の執筆に励んでいた。
「ああ…。」
木菟は溜息をついた。どうもまた行き詰まったらしい。
「…今回のテーマは失敗だろうか。白紙に戻そう。風呂にでも入って、少し休憩しよう。」
ペンを置き、木菟は席を立った。
風もないのに原稿用紙がめくれ、傍に置かれていた彼の眼鏡を包んで消えたのには、全く気付いていないようだった。

「どうされましたの、先生。」
翌日、六花はカウンターに肘をついて何か考えている様子の木菟に尋ねた。
「今日は何だか口数が少ないですわ。」
「ああ…。」
木菟は物憂げに頷いた。
「眼鏡を無くしてしまったのです。昨日からどうも見つからなくて…。」
「あら?先生眼鏡なんてかけていらしたかしら。」
美子が首を傾げる。木菟は笑って答えた。
「液晶を見るときだけ使うんです。私目が弱いものでして。」
「そうでしたの…。PC眼鏡ってやつね。」
美子は納得したように頷いた。
その時、六花の玄関が開いた。
「あら、いらっしゃい、晴明君。」
「おう、女将。…あれ?」
晴明はカウンターに座る木菟を見て、変な顔をした。
「どうしたの?」
「いや、俺ここに来る途中でおっさんに会った…。いや、正確には見たって言うべきかな。」
「え?」
木菟は戸惑ったような表情をした。
「私は先程からずっとここにいますが…。人違いでは?」
「うーん…。もしかしたらそうかも。髪型も服装も違ったし、眼鏡もかけてたし。」
「どんな方だったの?」
美子が尋ねる。
晴明は記憶を探るように目を閉じ、ゆっくりと話し始めた。
「コートにズボンの洋装だったぜ。髪はオールバックみたいな感じで、眼鏡は銀縁。でも、顔はまんまおっさんだったしキズもあったから、イメチェンしたのかなーって思ってたんだけど。」
「私のなくした眼鏡も銀縁です。」
木菟は思い出したように言った。
「何?おっさんメガネなくしたの?バカじゃん。」
「それは関係無いでしょう。」
木菟は溜息をついた。
そんな彼の様子を気の毒そうに見て、美子は言った。
「その眼鏡って、大切なものなんですの?」
「ええ、まあ。あまり使いませんが、いつかの母からの誕生日プレゼントなのです。」
「まあ…。大切なはずですわ。」
美子は胸に手を当てた。
「…仕方がありませんよ。同じ型の眼鏡を買う事にします。」
ご馳走様、とココア代を出し、木菟は店を出て行った。
「にしても、本当に似てたんだよな…。」
木菟の背中を見送って、晴明はぼそりと呟いた。

「ありがとうございましたー。」
なくしたものと同じ型の眼鏡を買い、木菟は帰り道を歩いていた。
「残っていて良かった、廃番になる寸前だったようですから…。」
紙袋から眼鏡を取り出し、かけてみる。
PC眼鏡なので、勿論周囲の景色は変わらない。
しかし、木菟の目はその中に違和感を捉えた。
彼の視線の先には、眼鏡をかけた黒いコートの男。
横を向いており、冷たい表情をしていた。
木菟には何となく、その顔に見覚えがあった。
「どこかで会ったような…。誰だ?」
かけていた眼鏡を外し、男に近づいていく。
「あの…。」
男が振り向いた。
頰に刻まれた、妙に目立つ傷跡。
「…あ、あなたは」
その顔は、紛れも無い木菟のものであった。
木菟と瓜二つの顔を持つその男は、驚いたような顔をして木菟を見つめると、彼の顔に触れた。
「私の顔と同じ…!あなたは何者なんです?」
不思議そうにこちらを見つめる男に、木菟は努めて冷静に答えた。
「私は木菟、小説家です。」
「小説家…だって⁉」
男は顔色を変え、木菟を突き飛ばした。
「痛たた…。何するんですか!」
男はがくがくと震えながら、半ば叫ぶように言った。
「私は今朝までの記憶がすっぱり無いんです。自分の素性も分からない。しかし最後の記憶だけははっきりしているのです。」
「最後の記憶?」
木菟が尋ねると、男は木菟を睨むようにして見た。
「私は小説家の男に殺されかけたのです。他の事は何も分かりませんでしたが、相手が小説家であるという事だけは妙にはっきりと分かったんです。」
驚く木菟。男は唇を噛んだ。
「私は必死で逃げた…。その記憶だけが私の中に強く残っているのです。それ以外の事は何も知らない。自分の名前さえも。」
「で、でも…。あなたを殺そうとした小説家の男が私である証拠はどこに?」
「そんなものありません!…ありませんが」
男は木菟をしっかりと見据えた。
「…私と瓜二つの小説家。何か関係あるに決まっています。」
「そんな…。」
狼狽する木菟の襟首を、男は掴んだ。
「私は私の素性が知りたい。あなたなら何か知っているのでしょう?」
「私は何も…。」
その時、季節外れの通り雨が降り始めた。大きめの雨粒に打たれた男の腕がピクリと引きつったように動き、みるみる力が抜けていく。
「くそっ、どうしたんだ…⁉」
男はその場にへたり込んだ。
その様子を呆然と見ていた木菟は凍りついた。
男の皮膚に薄くマス目のような文様が浮き出している。
「これは一体…。」
雨に濡れるにつれ、男の身体の震えは激しくなっていく。
我に返った木菟は、男の腕を肩にかけて近くの軒下まで連れて行った。
濡れた男の身体を、木菟は改めて見た。
真っ白になった肌、そこに浮かび上がるマス目の中に書かれた小さな文字。感触は紙のようだった。
「とりあえず、歩けますか?」
男は怯えたような目で木菟を見た。
「どこへ連れて行く気です?」
「ご安心を。あなたに危害を加えたりはしません。」
男は警戒していたようだったが、頷いた。
「良かった。それじゃあ、これを被って濡れないようにしてください。私の行きつけの喫茶店までご案内します。」
木菟は男に羽織りをかけた。
「…すみません」
男は木菟をちらりと見て、羽織りを頭から被った。

「…という訳なんです。」
木菟は六花のカウンター席に座り、事のあらましを話した。
「まあ…。」
美子は驚いたように何度も瞬きをし、男の顔をまじまじと見た。
男はほんのりと顔を赤くし、美子から目を逸らす。照れているようだった。
「その、肌にマス目と先生の文章が浮かぶのはどういう訳なんでしょう?」
美子が呟くと、木菟は頷いた。
「美子さん、経凛々という妖怪を知っていますか?」
「経…?」
美子は首を振った。
「…まあ、知らなくて当然ですね。それほどメジャーではありませんから。」
木菟は着物の袖からネタ帳を取り出し、まだ白いページを開いてそこに「経凛々」と書いた。
「経凛々。読んで字の如く、経典の妖怪です。古い経典が妖怪化したものといわれ、一種の付喪神のようなものです。」
そして、字の横に嘴のある妖怪の姿を描いた。
「妖怪画家鳥山石燕は、このような姿で描き表しています。身体が経典の紙でできた龍か鳥のような姿ですね。」
ネタ帳に描かれた経凛々の姿をじっと眺めている男に、木菟は言った。
「恐らくあなたは、この類いの生き物なのでしょう。私が捨てようとした原稿に、捨てられたくないという意思を持つ魂が宿った物とでも言いましょうか。それなら全て辻褄が合う。記憶が無いのも当たり前です。昨日生まれたばかりなのですから。小説家に殺されかけたという意味も分かります。実際、あなたこと原稿を没にしようとしたのは小説家であるこの私ですから。」
男は黙って木菟を見上げた。
その目は赤く燃えていた。
「…何を言い出すかと思えば」
木菟をきつく睨みつけ、男は言った。
「私が原稿用紙、ですって?ふざけるのも大概にしてくださいよ。」
「信じたくないお気持ちは分かりますが…。」
「信じたくないも何も、私は人間です!こうして感情があるのが何よりの証拠です。そんな現実離れした化け物に、感情なんてありますか?」
木菟は悲しそうな顔をした。
「私も信じられませんが、そう考えれば何も不自然ではありません。」
「もういい!あなたを信じた私が馬鹿でした。」
男は立ち上がり、美子をちらりと見て店を出ていった。
「あ…。」
「先生、外はまだ雨が…。あの人、濡れてしまいますわ。」
美子の言葉を聞いて、木菟ははっとした。
「先程彼が雨に濡れた時、彼は私の目の前でみるみるうちに衰弱していきました。それで彼の体が紙に戻り始めたのです。」
「えっ⁉それじゃあ、あのまま雨に打たれ続けたら…?」
木菟は美子を見上げた。
「私には分かりませんが…。もしかしたら彼は形を保っていられないかもしれません。元の紙に戻ってしまうかもしれない。」
「そんな、可哀想…!」
「いや、それ以上に哀れな事になる可能性もあります。」
神妙な顔をして、木菟は言った。
「恐らく、彼は自分が私の原稿用紙である事を心のどこかで分かっています。でも、それを受け入れることがどうしてもできない。そのまま本物の経凛々になりきれてしまうのならまだいい。しかし彼にはそうする心の準備ができていない。」
「それじゃ…?」
木菟は首を振った。
「恐らく、無理でしょうね。自分は人間であるという強い思いを持っているにも関わらず、姿は紙に戻っていく。そして雨に打たれながら、どんどん衰弱していくのです。理性的な彼にとっては、死ぬより辛い事でしょう。」
「…酷い」
美子は目を伏せた。
「彼は私が作ってしまったのです。彼はなりたくて経凛々になった訳ではないのです。」
木菟はカウンターに肘をつき、頭を抱えた。
その肩に、美子の白く形の良い手が置かれた。
「だったら、こんな所でじっとしていてはいけないんじゃなくて?」

勢いを強めた雨が、道端に倒れた男の体を打っていた。
「私は…。」
男は腕を見た。
コートの袖から出ているはずの腕は既に形を成しておらず、ボロボロの紙が申し訳程度に顔を覗かせているだけだった。
やはり自分は人間ではないのか。微かな期待も潰えた。
道の脇のショーウインドウに、自分の姿が映し出されていたが、しっかりと確認する勇気はなかった。
いっそこのまま溶けて消えてしまえたら、どんなにか楽だろう。
でも、そうなりたくない自分がどこかにいる。
「…生きたい」
人間として。
「…生きたい」
この世に生を受けたなら。
「…ー!」
声にならない叫び。自分が何をしているのか、そんな事を考える次元は超越していた。
雨音がふっと耳に戻ってきた。
六花を飛び出してきたときより確実に、雨足が強まっている。
意識が遠のいていく中、早足で近づいてくる二つの影を見た気がした。

「…こんな姿になって。可哀想に。」
美子は雨に打たれている黒いコートをめくり、その下敷きになっている紙の鳥ー経凛々を見つめた。
「先生、傘。」
「はい。」
木菟は余分に持ってきた傘をさした。
「先生、彼の形ができるだけ崩れないように運びましょう。」
「分かりました。」
美子は仕入れ用の台車を転がして、経凛々の脇に停めた。
「先生、頭を持って差し上げて。」
「はい。」
幸いコートが掛かっていたため、本来の姿に戻った経凛々の雨避けになっていたらしい。
「なるほど、話に聞く経凛々とは少し違いますね。原稿用紙だからかな…。」
「先生!そんな事仰っている場合じゃありませんわ。」
「あ、すみません。つい…。」
呑気な性を咎められ、木菟は苦笑した。
「さあ、早く乾かして差し上げないと。」
「はい。」
美子と木菟は台車を押して、六花へ戻った。

目を覚ました経凛々が見たのは、木菟がこちらにドライヤーの熱風を吹き付けているところだった。
少し腕を動かすと、木菟は眉をピクッと動かしてドライヤーを止めた。
「どうやら無事だったようですね、良かった。」
木菟はそう言って微笑んだ。
「あの、私…。」
「今は何も喋らない方がよろしいかと。体力がひどく落ちていますよ。」
「そうですわ。」
美子が経凛々の体に毛布をかけながら言った。
「体をしっかり暖めて。はい、湯たんぽ。」
「…ありがとうございます」
昔ながらの赤い湯たんぽを抱いて、経凛々はポツリと呟いた。
「…私は結局、何者なんでしょう」
消え入りそうな細い声で、時折声を詰まらせながら続けた。
「自分で思っていたものとは違った。人に指摘されて初めて理解した身の上は、自分では受け入れかねるもので。」
彼は毛布を外し、六花のガラス窓に映る自分の姿を見た。
それは普通の人間と変わらないように見えた。しかし、腕は原稿用紙を何枚も重ねてできたような翼になっている。
「あなたは」
不意に木菟が口を開いた。
「あなたは経凛々です。それは揺るぎない真実です。」
「先生…。」
厳しい言葉を口にする木菟の腕に、美子はしがみついた。
しかし木菟は全く怯む様子を見せず、あくまで淡々と話し続けた。
「しかし、あなたには理性がある。人間として生きたいと願う意思も。それならそうすればいい。どう生きようと自由なのですから。」
木菟は経凛々に目線を合わせるようにしてしゃがみ込んだ。
「どうされますか?人間として生きるなら、あなたを作ってしまった私が責任を持ってお手伝いします。死にたいと思うなら、私は躊躇なくあなたを燃やします。それもまた私の責任です。」
経凛々は木菟を見た。
「私は人間として生きたい。…ですが、私にできるでしょうか。」
「それは自分次第です。私には如何にもできません。」
経凛々は暫く考え込んでいたが、やがて何かを決意したような瞳で頷いた。
「誰がどう言おうと、私は人間です。」
木菟は立ち上がった。
「…それがあなたの答えですね?」
その問いかけに、経凛々はもう一度強く頷いた。

あくる日の六花。
カウンター席には、黒いコートを羽織った男性が1人座っていた。
体力が回復し、人型に戻った経凛々だ。
「えっと、あなたは飲み物ダメよね。」
傷のある頰を緩ませ、彼は困ったように笑った。
「はい。すみません、気を遣わせて…。」
「いいえ、お気になさらないで。ケーキでも召し上がるかしら?」
「いえ。私、普通の料理はちょっと…。」
「あら、ごめんなさい。」
「いいえ。」
その時、六花の玄関の戸が開いた。
入ってきたのは晴明。また学校を抜け出してきたらしい。
「女将ー、おはよ。」
「あら、晴明君。」
晴明はいつもの席に座り、経凛々をちらりと見た。
そして眉をひそめ、美子を手招きで呼んだ。
「ね、あの人…。」
美子は、ああ、と頷いて微笑んだ。
「晴明君、あの人はね…。」

談笑する美子、晴明、経凛々の3人を六花の窓の外から見守りながら、木菟は安心したように微笑んだ。
どうやら打ち解けたらしい。人間とそうでないものなどという浅い溝は、晴明には関係ないようだ。
運命は自分次第でどうにでも変えられる。どう生きるかは自由。
こう生きたいという意志があれば、大抵の事はどうにかなるのだ。
木菟は何かを書き留めていた小さなノートを閉じ、満足気に笑ってその場を立ち去った。

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