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職業訓練校木工工芸科という所(4)

五月後半からはノコギリを扱う訓練が開始された。

予定ではひとまず鉋、ノコギリ、ノミの三つの加工道具を使えるようにする事になっている。その後、簡単な部材の組み立てを始めてその中で少しずつ手加工から機械加工に置き換えていくことになるらしい。

私はせっかく身につけた手加工の技術を用いずに機械に頼ることはちょっともったいないなと思ったが、世の中にはどれほど熟練の技を身につけたとしてもやはり機械の方が早く綺麗に仕上がるという現実がある。ノコギリなどはその際たるものに違いない。人にとってノコギリは難しい。鉋も難しかったがノコギリには明らかにそれとは異質に難しい。

なんだか奥深さを想像させる鉋の難しさに対して、ノコギリのそれは単純に体に無い機能を求められるからだと思う。そもそも人間の運動の原理は関節を軸とした円運動なのであり、それを直線運動にひきなおすというのは、汽車ポッポの構造をもたぬ人の身にとっては簡単なことではない。

試しにこれを人型のロボットに行わせようとした場合、多軸を制御するややこしいプログラムを組まなければならないのだが、幸いにもそのようなマネをするロボットを造り出す必要はなく世には丸ノコというものが存在する。そして丸ノコはこの世のどの職人よりもまっすぐに材を切断する。

それでも、先生は言う。
「手作業を上手にこなす人の方が機械を使わせてもどういうワケか上手いですよ」
この言葉に励まされ、今日も私はノコギリをひく。

あとがき

近くにちょっと有名な大きなクスノキがあるということを知り、五月のある日に見に行った。

クスノキというのは、場合によっては五十メートルを超えるほど大きくなるという事だが、どちらかといえばあたたかい地方を好むようである。関東の高台に自生し、その上バカでかくなるというのは珍しいようだ。

田舎道を歩き続け無数の地蔵を拝み、なんだかいた馬を眺めたり道を間違えたりしながら山の中へ入っていくと、はるか高台の頂上付近にそれは遠望された。山の南側の斜面は開けていて人家があったりするが、残念ながら数本の杉が邪魔していてさしもの大木も梢の一部分しか見えていない。写真を撮りに来た身としては少し歯痒い。

しかし、このことはクスノキにとっては幸いなのだろう。大きく枝を広げたクスノキに対して強風は危険だ。前面の杉、周りの竹林は、おそらく風を弱めてくれている。

近づいてみてみるとそれは噂に違わぬ大木であった。クスノキという木はどういうわけか、かなり地面に近いところから分岐してしまう木で、本体となる幹が一本伸びるという具合にはいかないらしい。そのかわり、いかにも空間が木で満ちているという感じで圧倒される。

木の周りは板敷きのベランダのようなものが囲んでいて、人が近づきすぎないようになっている。大勢の人間が頑丈なアウトドアブーツなんぞで根元を歩き回ると木が弱ってしまうからだろう。私は寝っ転がったりヨーガの秘術を行っているような姿勢をとりながら何枚か写真を撮った

ベンチが据え付けてあった。私はそこで握り飯を食べ、その後しばらく呆けさせてもらった。このような時に無目的に意識を広げていくとごくまれにサトリをひらいてしまうことがあるがそういったものは半日後には忘れてしまう。私はそろそろ立ち上がりもう一回りしてみた。根元には小さな社があったが、つくりが新しくてちょっと場所にそぐわない。それでも五円玉を投げて手をあわせた。

この木は、地域の人から大事にされているのだろう。むき出しになってしまった樹皮や、おれた大枝の跡などには治療のあとがみられる。長生きしてほしいものだと思いながら山を下りた。私は樹木に霊性を感じるほどスピリチュアルな人間ではないが、古木や巨木を見ていると心がぞわぞわするのは確かに感じる。夜中に一人で見るのはきついだろう。畏怖という感情かもしれない。

私は訓練校に行くと、さっそくこのクスノキのすばらしさについて先生に話して聞かせた。しかし人間とはあさましい生き物なので、
「もしこのクスノキを製材したならば、いくらぐらいになるのでしょう?」
などと古木への尊敬もへったっくれもない事についてもついでに問うた。
これに対して先生は、
「そのぐらいの古いクスノキの巨木になると中身が腐ってしまっていることが多いのだ」
と応えた。私の卑しい心をたしなめたのかも知れない。

ちなみに木材の価格は1リューベで計られるそうである。リューベとは“立米”と書き、立方メートルの事である。古い単位では“石(こく)”が使われていたそうで、これは1尺×1尺×10尺のことである。1尺が30。3センチメートルであることから、1石は約0.28リューベに相当するといえる。

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