祖父の記憶

母方の祖父のことは少し覚えている。母に連れられて祖母の家に行くと、祖父もいた。わたしが覚えている祖父は、家の周りで作業をしていた祖父である。
小柄で、どちらかというと細身の人だった。でももう、顔立ちは思い出せない。写真も残っていない。
兵隊にとられていた時上官に殴られたのがもとで、祖父は両耳が聞こえなくなっていた。だから、祖父と話をしたことはなかった。
ものは言わなかったが、行くたびに、おやつに炒り豆を作ってくれた。軒下で、カンテキに火を起こして炮烙で大豆を炒る。団地暮らしのこどもの目には、カンテキも練炭もめずらしかった。また炒られた豆が時々ぴんと跳ね上がる動きもひどく面白かった。出来上がった炒り豆の中には真っ黒に焦げた粒も混じっていて、それはちょっと苦かった。

わたしが五歳になる年、祖父は亡くなった。直そうとした屋根から落ちて腰を痛め、その腰の手術の最中に命を落としてしまった。

手術の前に、母に連れられて、祖父の病室を見舞った。四人部屋だったか六人部屋だったか、同室の患者さんの中に病室で文鳥を飼っている人がいた。桜文鳥だった。明るい窓の近くに吊られた鳥籠の中で、文鳥の影が止まり木から止まり木へ移っているのを目で追った覚えがある。当時は病室に愛鳥を持ち込んでもかまわなかったのだろうか。

祖父の通夜と葬儀のことはヴィジョンのようにはっきりと覚えている。祖父を安置した座敷に布団を敷き詰め親戚一同で雑魚寝したこと。(わたしは、それを部屋の真上から見下ろした情景として記憶している。)酔った親戚のひとりが縁側を踏み外して落ちたこと。祖父の柩に掛けてあった朱赤の織物が薄暗いなかにも絢爛と輝いて見えたこと。仏壇の金箔に蝋燭の灯りが映えてこの世のものとも思えないほど美しかったこと。
焼き場の窯の前で、母に抱き上げられて祖父の顔を見た。「お祖父ちゃんバイバイやで」と促されて、バイバイ、と手を振った。柩の、顔のところにある小さな窓が閉められたら急に悲しくなって涙がぽろぽろ出た。この時ばかりは母もわたしに泣くなとは言わなかった。

祖母の家の東側の軒下と、南側の縁側の下には、祖父がきれいに切り揃えて割った風呂焚き用の薪がすきまなくびっしりと積み上げられていた。薪は祖父が亡くなったあと何年も残っていた。

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