母が医療につながったきっかけ

一九九九年、平成十一年の秋、一人暮らしをしていた母がいよいよ精神のバランスを崩してしまった。妄想と幻聴が出た状態で、わたしの家で一か月ほど同居もしてみたのだが、状況はまったくよくならなかった。わたしにだけならともかく、わたしのこどもたちにも怒鳴ったり荒々しく接したりするようになってきたところで、わたしも夫もついに(もう家で見るのは無理だ)と思った。わたしの家族と、母自身の安全を守るために、次の段階に進む覚悟を決めなければならなかった。
病識がなく病院に行きたがらない家族を医療につなぐという難題を、みんなどうやって解決しているのだろう。母の場合、思いがけない方向から活路が開いた。「近所の人に監視されている」「嫌がらせで差し向けられた救急車が二十四時間窓の外でサイレンを鳴らしている」と訴えていた母が、業を煮やして地元の保健所の窓口に押しかけて「近所の悪い人たちを取り締まってくれ」と苦情を申し立てたのである。
警察でも消防署でもなく保健所を訪ねて行ったのは母にとって幸いだった。その日保健所で母の話を聞いてくれたのは難病(精神病)担当のソーシャルワーカーさんだった。その人は母が帰ってすぐ、母から聞き出したわたしの電話番号に連絡をくれた。わたしはそこではじめて、母の保健所行きの件を知った。
ソーシャルワーカーさんは母を再度呼び出して受診をもちかける一方、わたしと面談をして状況を把握し、どの病院のどの先生にかかるのがよいかまで考えて診察の手配をしてくれた。
あの時点で母がソーシャルワーカーさんに出会っていなければ、わたしたちはますますどうしようもない状況に陥っていたことだろう。母のことはもちろん、家族にとってどうするのがよいのか細かいところまで心を砕いてくれた人には本当に感謝しかない。そしてやはり、母の行動力には驚く。母は病気の嵐が吹き荒れる中、自分と娘家族を救う道を自分の足で切り開きに行ったのである。

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