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引きこもりや不登校の人は、新時代を切り開くキーマン的存在かも知れない。「不登校」という言葉がなかった時代に不登校だった私が思うこと。

冬は、この窓にお日さまが昇ります。
だから、朝起きるとすぐにカーテンを開けて、暖房をつけて、朝の光が差し込むのを眺めます。
今朝の朝日もとてもきれいだった。
透明で、しかも力強い光。
昇るほど光の帯は伸びてゆき、やがてぼんやり座る私を包み込む。

今日は引きこもっていたいなぁ。

こういうことは、かなりしばしばあります。
そして、メールのやりとりもSNSも必要最小限にして、外の世界との接点をオフにします。
一時的に絶ってしまっても、さして問題は生じることはなく、よって焦ることもないということを経験から知っているので、自分の心に素直に従うようにしています。

作家でも、画家でも、詩人でも、俳人でも、あるいは建築家にしても、みずからクリエイターという「創造主」の道を選んだ人というのは、内的世界に引きこもる時間がどうしても必要なのだと思う。
というより、その内的世界を抱いているがゆえに、クリエイターに成らざるを得なかったというのが、本当のところでしょう。

1984年、私は高校3年生でした。前年から年に1~2度、学校に全く行けない「不登校」の時期を経験するようにになっていました。

世の中が浮つきはじめ、「物」や「お金」や「肩書き」など、目に見えるものばかりに急激にシフトしていたバブル前夜。

世の風潮に合わせていこうと我ながら、けなげにも努力していたと振り返ります。でも、どうしても違和感をぬぐえないままでいるために、やがて合わせることが出来なくなり、合わせようともしなくなる。


学校に行けなくなるのは、ちょうど、真冬のこの時期が多かった。
自分で学校に電話をして「今日はお休みします」。

そして、日がな一日、本ばかり読んでいるのです。
たまにテレビを見たり、猫と遊んだり。ベランダから空を眺めたり。

救いだったのは、母が「学校に行きなさい」と言わない人だったこと。
どこか世間からズレていたのかもしれません。
そういえば母も世間並みのことができなくて、ちょっと孤立気味でした。

ともあれ、「ママ、お買い物に行ってくるわね。今日のごはん何がいい?」などと平気でいるのです。

それで私は、好きなだけ家で過ごしたものでした。

本を読んで、ピアノを弾いて、詩や散文を書いて、猫と遊んで、母とお茶をして、そしてまた本を読んで・・・

そんなふうに過ごしているうちに、自然と、そろそろ学校に行ってみようかなという気になる。

もちろん少しだけ抵抗がありました。
でも、友人達が、みんなかわいくていい子だったこと、これがまた救いでした。

「ねえ、どうしたの? しばらくだったじゃない」

そう話しかけられて私は照れ笑いを返す。そして、その日のうちに、空白の時間などなかったかのようになる。

恵まれていたのでしょうね。
だから今でも平気で引きこもることができるのかもしれない。

子どもが不登校になると、親は慌てるものなのでしょう。

でも、母が慌てなかったことで私は極度の不登校にならなかった。

今でも、たまに引きこもったとしても、それがほんの数時間から、長くても一日程度で済んでしまうのは、母はもちろん、友人達のおかげかもしれない。

人は誰でも自分一人の時間、本来の自分にかえる時間が必要なものでしょう。

それが独自の内的世界を抱きがちなクリエイターとなると、必要度は高くなる。ただそれだけのこと。

不登校や引きこもりがすごく増えた今、それだけ内的世界が豊かな人が増えたということかもしれない。

バブル期までは、18世紀の産業革命によって求められるようになった人間のタイプ、つまり「オリジナリティより平均的であること」がけっこう重要であり、そういう人々が経済を後押ししていったのでしょう。

でも今は、もはや平均的であったら、どうなるか?というところまで来ています。
より創造的である方が、たぶん経済のみならず、文化的にも社会の発展に貢献していくと私は見ています。

一概には言えませんが、不登校や引きこもりにならざるを得なかった人は、実は新たな時代を切り開いていく上で、鍵を握る存在かもしれません。


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