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「やつしの美」「くずしの美」

心に残る、感動した、という意味での「刺さる」ではなく、本来的な使い方として、実に突き刺さってくる。
こういう時、自分を棚に上げてはならないな、と思う。
我が身を省みつつ、備忘録として書いておく。

以下は松岡正剛『うたかたの国 日本は歌でできている』(工作舎)より。

 日本文化では、フォーマルあるいは提携というものからちょっと外れることが「くずし」であり「やつし」なのである。
そこには「整えきっているのは、やりきれない」という感覚がある。

松岡正剛さんの本はどれも膝を打ちすぎて痛くなるが、本書もまたしかり。
「整えきっているのは、やりきれない」という、的確この上ない言葉に心地よく「やられた!」と思う。
「やりきれない」という言葉に対して、しかしどれくらいの人が体感を伴えるのだろうか。
ただし本題はそこではなく、「くずし」「やつし」についてである。
これが日本文化(のひとつ)、まさに。
「やたらと整っているもの」は、江戸弁で言えば「野暮ったい」のであり、ちょっと崩すところに「粋」がある。

続く一文は、さらに鮮やかに斬ってくる。

 もっとも、フォーマルや定型を身につけない「やつし」「くずし」は、たんなる反抗か見持ちくずしか、あるいはウケ狙いか恥知らずに過ぎない。「型」がなければ、「くずしの美」も「やつしの美」もおこらない。型があるから「型破り」が芸になる。

何でも簡単に結果を出せる世の中、「気軽に」「誰でも」「すぐに」という風潮のなかで生まれてくる言葉の大半は、「くずしの美」でもなければ「やつしの美」でもない。
そして、ウケ狙いであることは当人はどこかでわかっていても、恥知らずだとは思わないだろう。
何でも簡単に結果を出せるという、その結果も幻想に他ならないし、それ以前にそのように見える世界そのものが幻想だ。
しかし勘違いも気づかなければ幸せというもの。
では、あなたは?と、もう一人の自分が今度は突きつけてくる。
あなたはどうなの?
そうなのだ。
地味だけれど、パッとしないけれど、表向きはわからないけれど、でも、やっぱり、基本は繰り返し身に染みこませていくことだ。
もうわかっている、などと思わないで。
禅の老師は「なりきる」ということをしょっちゅう言われる。
ちゃんとした本を読もう。
私を育ててくれた文豪たちは、今も生きている。
ページを開けば、今の私にふさわしいレベルの講義をしてくれるに違いない。


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