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あの日私は特攻隊員と同じ空を飛んだ

11月30日、ふと、「ああ、そういえば」と想い出したことがあります。
去年の同じ日、私は鹿児島県鹿屋市にいました。
海上自衛隊鹿屋基地から哨戒機P3-Cに搭乗し、鹿児島湾上空を飛んだのは、午後三時過ぎ。
斜めの日射しが眼下に広がる海を黄金色にきらめかせ、富士山を思わせる開聞岳は夕焼け色に染まっていたのを、今もはっきりと憶えています。
私は操縦桿を握るパイロットのすぐ後ろの席にいて、涙を必死でこらえていました。
それは、昭和20年、太平洋戦争末期に、特攻隊員が人生の最後に目にした光景だったのです。

鹿屋基地は最も特攻出撃戦死者が多い

海上自衛隊鹿屋基地とのご縁は、『五月の蛍』(内外出版社)の執筆・出版をきっかけに結ばれました。
同著は、特攻作戦にただひとり異議を唱えた指揮官・美濃部正少佐の生き方を描いたノンフィクションです。美濃部少佐が率いる芙蓉部隊は、独自の夜間奇襲攻撃で終戦まで戦い抜いたのでした。
美濃部少佐と芙蓉部隊について語るとき、どうしても特攻隊や特攻作戦について迫らざるを得なくなります。
南九州には多くの特攻基地が存在していましたが、鹿屋基地は、特攻機が最も出撃した基地であり、従って特攻戦死者も最多です。その数、908名。
ちなみに、特攻というと知覧が有名になっていますが、知覧は陸軍の特攻基地で、特攻出撃戦死者は436名。
特攻については、私は「海軍特攻と陸軍特攻は分けて考えるべき」であり、さらにいえば「昭和19年のフィリピン戦における特攻と昭和20年の沖縄戦から終戦までの特攻についても分けて考えるべき」という結論に至っていますが、本稿では、そうした内容については割愛します。

戦後、ほとんどの基地が太平洋戦争時の状態から変化するなかで(多くは大幅に基地のスペースが縮小され、基地の形態も変わりました)、鹿屋基地は、唯一、ほぼ当時のままの状態です。
今、海上自衛隊の航空部隊が使用している滑走路は、太平洋戦争時に使われていたのと同じ滑走路なのです。

と、いうことを頭ではわかっていたのですが、その日、私は、P3-Cに載せてもらえる!とワクワクするあまり、どこかそうしたことが頭の中から飛んでしまっていました。

けれど、けれど・・・・

特攻隊員が人生最後の足跡を残した滑走路

P3-Cに搭乗し、座席についてほどなく、飛行機はゆっくりと動き出しました。エプロンと呼ばれる部分から滑走路へ向けて、ゆっくりと移動しはじめます。
窓から見える景色が展開し、乾いた下草が海風に揺れているのが見える。
私はなおもワクワクしてご機嫌な気分でした。
やがて、機体が多少揺れながら右にカーヴした時のことです。西日に照らされた滑走路が真正面に見えました。
目の前に、まっすぐに・・・

その瞬間、まるで強烈なフラッシュバックが起きたような気がします。
気軽な気分は、どこかに吹っ飛んでいきました。

この滑走路こそ、若い特攻隊員達が最後の足跡を残していった場所。決して長くはない生涯の、生きた証を・・・。

そう実感すると、風景までもが一変しました。
私には、出撃する特攻隊員を涙をこらえながら見送る整備兵の姿が見えるようでした。ちぎれんばかりに帽子を振っている姿が。

やがてP3-Cは速度を上げ、ふわりと浮き上がりました。
同機の乗り心地は太平洋戦争時の飛行機と、よく似ているということです。
旅客機とは比べものにならないほど、軽々と空へと舞い上がっていきました。

特攻隊員を見送った開聞岳


機体は次第に高度を上げていきました。
鹿屋基地と、その周辺に広がる町が、どんどん遠のいていく。
もう、眼下は波打つ海面ばかりになっていきました。
副操縦士が色々と説明をしてくれる。けれど、私の意識は、まるで違う次元にあるかのようでした。
変に思わないでください。
その時、特攻隊員とシンクロしていたのだと思うのです。
「最後の旅」に出た彼らの想いが胸に迫っていました。その悲しみと、やるせなさと、切なさと、怒りと、あきらめと、恐怖とが。
あらゆる感情が噴出しているかのようでした。その感情を冷静に包み込んでいる。訓練の賜でしょう。

やがて、開聞岳が見えてきました。
関東育ちの私からすると、まるで富士山のような姿にも見えます。
わかってはいたけれど、なぜか私は、バカのように確認しました。
「あの山は・・・?」
「ああ、あれが開聞岳です」
副操縦士が明るい口調で答える。
私は、「やっぱりそうですか」といいながら、喉が詰まったようになる。

高度100メートルほどでしょうか、ちょうど開聞岳の中腹に自分が位置しているような感じがします。

開聞岳は、特攻隊員が、本土に最後の別れを告げた山です。
この山に「さよなら」をした後は、「よし!」と覚悟を決めて、沖縄へと飛んでいったのです。

彼らは帰りたかった。できればUターンして

体験搭乗ですから、上空を飛ぶのは、たぶん15分か20分くらいのものだったと思います。
海上をしばらく飛んでいた機体は、基地へ向けて旋回しました。
再び開聞岳が目の前に表れる。
夕日に染まる山肌が、どんどん近づいてくる。

ああ、彼らは、帰りたかったんだ。こんなふうに旋回して、戻ることが出来たらどんなに良いかと・・

でも、それは絶対に出来ない。日本の男だから。ふるさとにいるお母さんや、妹や弟たちを守るのが、俺たちの役目だから。

帰りたい、けれど、帰ることは出来ない。
真っ二つに引き裂かれるような想いを抱えながら、彼らは、南西の海を飛んでいった。

もはや私は、涙を止めることは出来ませんでした。

思えば、特攻隊員と同じ滑走路から飛び立ち、同じ空を飛ぶなんて、なんという希有な体験かしれません。
このような機会を与えられることは、ほとんどないでしょう。
誰か、鹿屋基地から「出撃」体験をした人はいますか?

私には、このような機会を英霊がつくってくれたとしか思えないのです。
もちろん現実には、鹿屋基地の関係者で、非常にお世話になっている方が力になってくださったのです。
けれど、うまくいくことと、いかないことがある。
あまりにもスムーズに事が運ばれるとき、何か、大いなる力が働いている場合が多い・・・というのが私の実感するところです。
ゆえに、英霊が導いてくれたのだと。
そして、特に特攻隊員の英霊が、私にどうしても伝えたかったのではないかと思われてならないのです。

特攻については、いつか書かねばという想いを、ずっと昔から抱いています。
そのために、英霊は様々な機会を作りながら、私に多くを教えてくれている、まだ、その最中です。

             

*『五月の蛍』(内外出版社)


写真
上から鹿屋の小塚公園にある旧鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔。
下は桜花の碑。


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