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明治女に学ぶ美しい人生のたしなみ*第十回 誰かに必要とされていることが、私に勇気を与えてくれる

大山捨松(おおやますてまつ)

安政七(一八六〇)年、会津藩家老山川家の末娘として生まれる。初の女子留学生として十一歳で渡米。ヒルハウス高校を経て名門バッサーカレッジに入学、日本女性初の米国大卒となる。卒業後、看護婦養成学校にて看護学を学び帰国。明治十七大山巌と結婚し鹿鳴館の社交場デビュー。女子教育や看護婦育成にも尽力する。大正八(一九一九)年、五十九歳で死去。


日ノ本の国から来たサムライの娘

  捨松が日本初の女子留学生の一人として渡米したのは、十一歳の時でした。それから約十一年、里親であるベーコン牧師のもとで暮らしながら学業を修めます。アメリカの名門女子大学を卒業したのも日本女性初なら、コネティカット看護婦養成学校で衛生学や看護学を身につけたのも日本女性初。捨松には何かと「初」がついてまわります。前例のないことを成し遂げるには、実行力に根気が必要ですが、それ以上に「会津武士の娘」だという自負が捨松にはありました。

 捨松がアメリカに滞在している時期、兄の山川健次郎もエール大学のシェフィールド理学校に在学しています。健次郎は妹を頻繁に訪ねては「賊軍の汚名を晴らすためにもがんばろう」と妹を諭したにちがいありません。健次郎は白虎隊の生き残り。当時八歳だった捨松は、籠城し不発弾を濡れた布で押さえたり、傷兵を必死で看護する女性たちを手伝いました。捨松が看護学校に進んだ背景には、言葉にならない凄惨な記憶があったのかもしれません。

 けれど捨松は、そんな過去を少しも感じさせませんでした。ベーコン牧師は捨松を天真爛漫で頭が良く、優しくて信頼がおけるため、「私たちは皆すっかり彼女の虜になってしいました」(『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』久野明子 中央公論社)とべた褒めです。また、ベーコン家にはアリスという二歳年上の娘がありました。捨松にとってアリスは何でも話せる姉のような存在でした。明るく振る舞うことができたのは、アリスの支えもあったからかもしれません。

 

運命を受け入れたら道が開けた

 明治十五年、捨松は大いなる夢と希望を胸に帰国しました。

 日本に女学校を創りアリスを教授として迎えよう。そのためにも、まずは自分が社会に出ていこう。

 ところが現実はそうはいきませんでした。教師として働きたいと文部省に申し出をしても、待てど暮らせど返事が来ません。事態を打開しようと行動すると、何かにつけて因習が行く手を阻みます。と同時に、持ち込まれるのは縁談ばかり。アリスへの手紙に「人生とはいやなことばかり起こる」と愚痴をこぼすほどでした。

 しかし運命とはわからないものです。そんな捨松が仇敵・薩摩藩の大山巌と結婚することになるのですから。しかも、当時はまったく考えられないことですが、大山巌とデートを重ねたあげく決心したのです。捨松は、それまでの鬱屈した状態を脱し、「未来に希望が持てるようになった」とまでアリスに報告しています。自分を必要としている人がいる。その人の子ども達の幸福までが自分の手にゆだねられている。その結果、自分の身に起きる試練など気にならなくなった、というのです。不思議なのは結婚を選んだことによって、むしろ夢に繋がる道が開けたことです。これには捨松自身も意外な思いを抱いたことでしょう。

 結婚後、捨松は大山夫人として鹿鳴館にデビューしました。完璧な英語で海外要人と談笑する捨松は、一夜にして人々の憧れとなります。ほどなく華族女学校設立のための準備委員の一人に抜擢されました。それが思いがけず、アリスを教師として迎えたいという夢の実現に繋がったのです。明治十七年、アリスは一年間、華族女学校の英語教師として迎えられました。

友情から生まれた善意

 捨松は日本初の慈善バザーも開催しています。いわゆる「鹿鳴館バザー」で、看護婦養成所設立の資金を集めるためでした。上流階級の女性がお金を扱うなどあり得なかった時代、珍しさも手伝って皇族や政府高官が押しかけて大盛況。収益は目標を遙かに超え、その全額が看護婦養成所の設立を目指す有志共立東京病院(現東京慈恵会病院)に寄付されました。

 元来の積極性に自信が伴ったのでしょうか、捨松は水を得た魚のごとく、さらに社会活動を拡げていきました。その最たるものは、日露戦争における活動です。捨松は篤志看護婦会をはじめ複数の組織を通じて積極的に救護活動を開始。のみならず深層育ちの令嬢を取りまとめ、ボランティア活動も行いました。さらには、海を隔てた親友アリスとの協力により、多額の寄付も得たのです。

 捨松は日本の状況を切々と綴った手紙をアリスに送りました。それは新聞では知り得ない生々しい情報です。アリスは地元新聞に、かつてこの町で暮らした捨松のことを憶えておいででしょう、と前置きした上で、捨松が満州軍総司令官の妻として身を粉にして働いていること、勇敢な小国が多くの犠牲を払いながら戦っていることを記事にして伝えました。反響はたいへんなものでした。三十年の時を経ても町の人々はサムライの娘を忘れていなかったのです。捨松の会津魂、誠の心は、忘れがたいものだったのでしょう。

 その後も捨松は津田梅子の女子英語塾(現津田塾大学)の設立・運営に尽力するなど教育活動に携わり続けました。そんな捨松が、最晩年に気になる言葉を遺しています。

 日本の女子教育は間違った方向に進んでいると思えてならない。

 欧米の教育の良いところを学ばないまま、日本女性の最も良い面を失ってしまったように思えると、大正五年にアリスへ送った手紙に書いているのです。十一年間も米国で暮らし、米国の教育を受けた捨松の言葉だけに重みがあります。捨松の疑問は、今なお未解決のまま・・・そんな気がするのは私だけでしょうか。

みなさまからいただくサポートは、主に史料や文献の購入、史跡や人物の取材の際に大切に使わせていただき、素晴らしい日本の歴史と伝統の継承に尽力いたします。