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上野界隈に明治日本の恩人を思う~文化財保護法の父、アーネスト・フェノロサ

上野を歩くなんて何年ぶりだろう。
忘れかけていた懐かしい風景、そう、東京は案外緑の多いところだった。

もともとは上野寛永寺の敷地だったのを、明治政府が取り上げて
軍用地にしようとした。

それを断固阻止したのは、実は、日本人ではない。
オランダ人軍医のボードワン博士である。

その猛反発ぶりに明治政府が折れ、上野公園としての整備に取って代わられた。明治の元勲といえば、なんだか立派そうだけど
その程度の認識だったのだ。

明治初期に、日本文化が破壊されようとした例は枚挙にいとまがない。
そして、それを阻止した外国人は、ほかにもいる。

この美しい煉瓦の建物は、言わずと知れた東京芸大だが
その前身となるのが岡倉覚三の東京美術学校である。
岡倉覚三は初代校長、副校長にはアーネスト・フェノロサが就任した。

このフェノロサもまた、日本の恩人というべき人である。
大森貝塚の発掘で知られるモース博士の紹介で来日したフェノロサは
各地で寺院が荒廃し数多くの仏像が無惨な姿で
打ち捨てられているのを目にして、ひどく驚いた。

なぜこれほどの美術品をこのように扱うのか?

日本人はおかしいのかとさえ思ったようだ。

フェノロサは何かに憑かれたように調査に赴く。
その助手として共に各地を巡ったのが岡倉覚三である。

英語が堪能だった岡倉はフェノロサのまたとない右腕となった。

もし岡倉覚三がフェノロサの助手にならなかったら東洋美術への開眼はあっただろうか。
『茶の本』は、生まれただろうか。

おそらくはなかっただろう。

それを想うと
まるでパズルのピースがぴたりとはまっていくような
出会いの不思議に身震いする。

我が国の文化財法保護法は、フェノロサの発案が前身となって
今に至っている。
世界屈指の長寿国であり独自の歴史を有する日本という国が
その中で培われた文化を失ったら
もはや、寿命も尽きたと言うべきだろう。


鮮やかな緑に染め抜かれた光景を通して
彼らの存在を感じる。
このあたりを、歩いたにちがいない。

不意に誰かとすれ違ったような気がして思わず振り返ったけれど

わかっていた。

そこには西日を受けた
木々の長い影が落ちているだけだと。




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