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「献呈」(『このあいだ』第3号 2020/12)

ラス・カサス、染田秀藤訳『インディアスの破壊についての簡潔な報告』岩波文庫、2013

マキャヴェッリ、森川辰文訳『君主論』光文社古典新訳文庫、2017

 ぼくの娘は目ざとい。 何にか。 アルチュール・ランボーの詩 「永遠」 をもじって歌えばこうなる。

 また見つかった
 何が一
 永遠が一
 人様の投げ捨てたゴミさ

 保育園への登園時、 そんなに散らかった道ではないのだが、 目を凝らせば植え込みの下などに空き缶やおにぎりの包装プラスチックゴミが見つかる。

 娘は、 「ごみすてたらあかんなー」 と言う。 ぼくは、「ダメだねえ」。 そもそも道にゴミを捨てる人のことを批判してダメだと教えたのは私だった。 それで娘は素手でゴミを拾おうとするのだが、 出勤途中でもある自分は急いでいることもあり、もちろん汚いものを触らせたくないのもあり、そんな娘を制して、 「今は無理」 と言う。

 16世紀に、 スペイン人の元征服者 (コンキスタドール)でドメニコ会修道士のラス・カサスによって書かれた『インディアスの破壊についての簡潔な報告』 には、道にゴミを捨てるどころではない悪行の数々が執拗に記されている。 それぞれの章の表題は 「〜地方について」や「〜島について」 等だが、 地理や地方の風俗について必ずしも詳細に書かれているわけではない。 どの章も基本的な筋立ては、船でやってきた征服者たちを無垢な先住民 (インディオ)たちが神々を迎えるようにして歓待する、 黄金を差し出す、ところが欲にくらんだ自称キリスト教徒たちは、彼らを虐殺しあるいは奴隷として酷使し、 さらなる黄金を得ようとする、大雑把に言えばこんなふうである。 ともすれば、その叙述が単調な繰り返しに思えて、途中で書を投げ捨ててしまいかねないほどに。 キリスト教徒 (スペインの旧教徒、またドイツの新教徒)たちは先住民の子どもの足をつかんで放り投げて獰猛な犬に投げ与え、あるいは黄金を差し出さないからといって、 幾人もの首長を火あぶりにして殺し、女性を強姦し、 また追いきれない重荷を背負わせて歩かせ、倒れれば剣で頭部と胴を切り離し、 食べ物を与えずに餓えさせ、 彼らが訪れる前は沃野だった地をどこも荒地に変え、人口を劇的に減少させた。 ラス・カサスはこれらのすべてを見た、もしここに書いていないことをも書き記すとすれば、 浩瀚こうかんな書物となろう、 と何度も語る。 そのとき彼の心に浮かんだのは、 ヨハネ福音書の記述 「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。 わたしは思う。その一つ一つを書くならば、 世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」 (21章25節、 新共同訳)ではないかと想像する。皮肉である。

 正直に言えば、この 「報告」を読みながらうんざりした自分もいる。 どこを切っても同じ金太郎飴に思えなくもない。 征服された地方の地理的特色を詳述することも、 出来事の多様性をドラマティックに描こうとする意図も技巧もない。 読み物として面白いものではないと思う。当然といえば当然かもしれない。読者を楽しませようとして書かれているわけではないのだ。 繰り返されるパターンや征服者と被征服者のステレオタイプに見える描写、誇張に思えてしまうような数字は、この書がスペインを貶めるための書としてその真実性・信憑性を疑われてきたのも無理からぬことに思える。

 しかし本を読むことを楽しみにしているぼくのような人間が見誤ってはいけないのは、この本はそれが献呈された王に対して実際に起こっている悲惨を知らせ、征服者たちにその悪行をやめさせるよう、王に求めるための努力であるという点である。

 ラス・カサスはその献呈の辞で暗に王を非難しているように思える。王が正しい心の持ち主であることは疑い得ない。 不正の故に自分の治める地で民が苦しんでいるとしたら、それは王が事実を知らされていないからだ。 私の先の報告は王の多忙のゆえにまだ読まれていないのに違いない。もし読まれれば、すぐにも行動を起こされるはずだからー。

 現代の民主主義の時代と地域に生きているわれわれは、ラス・カサスの本を手に取るときに王になる。 主権者であることに気づくのである。そして少なからぬ数の人が知らせようとしている不正や「悪」の報告を受けている。 何一つ知らないということは稀なはずだ。 思えばぼくも小さな頃から世界の不平等や不正義については聞き慣れすぎてきた。

 ぼくは正しい心の持ち主だろうか。 ゴミを拾うことさえ厭う自分が?
 有名な 『君主論』 をロレンツォ・デ・メディチに献呈したマキャヴェッリはその書物の中にこんなことを書いている。

「ここには、 神に導かれた、前例のない尋常ならざる出来事が見られる。 海は分かたれ、 雲はあなたに道を示し、岩は水を吹き出し、 マンナが雨のごとくに降り注いでいる。こうした出来事が、ことごとく、 あなたの偉大さのうちに集まってきたのだ。 あとはあなたがなさねばならない。」

「海は分かたれ」云々は聖書の出エジプト記の出来事だが、 ここでマキャヴェリが言う好機・出来事というのはイタリアの危機のことである。 そして彼が語りかけたいのは、ただ座って読書している王にではないのだ。マキャヴェッリはこうも言う。

「よき助言は、誰からもたらされるものであっても、必ず君主の思慮深さから生まれるのであり、君主の思慮深さがよき助言から生まれるわけではない」

 王に書物が語りかけることは、自らの内から語られねばならないのではないか。

 さて 永遠とは何だろう。 キリストの光を知ることなく虐殺された、 先住民たちの下った陰府での時間だろうか。 あるいは、誰かが代わりにゴミを拾ってくれるまでの永い時間のことだろうか。

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