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2023/01/14

 学校の授業は特に頑張らず、時間と先生の声の流れるままに記憶、いくつかのノートが残る。現代文の授業で黒沢清監督の『CURE』を観る。三分の一観終わって、あと二回の授業で観終わる予定。先生が「ちょっとグロテスクなシーンがあります」と仰っていたが、ちょっとどころではないのでは?あの怪しげな男が話しているだけのシーンにすら、どこか暴力的な波動の発散を感じた。目に映るだけの暴力と殺人に気を取られているうちに、あの人の中に潜む歪みを感じ取れなくなる、そのことを意識に置きつつ、続きを見ていきたい。

 午後は友人母子と家の母子で食事。シンプルなイタリアンで、美味。特に前菜のカポナータには感嘆!ケッパーの代わりにブラックオリーブが入っているものは珍しいから、味わって食べる。カポナータってなんでどこも美味しいのか。毎食カポナータを食べていたい。
 前日に引き続き、脳が飽和するほど喋り倒す。僕の友人以外、とめどなく話すことを2023年の目標として掲げているのかと訝しむほど喋る。僕に至っては喋りすぎると疲れて眠くなることが分かっているのに喋る。だって相手が話しかけてくるのだから、同じ熱量で返してしまうのだ。多分、表層的な会話のできない質なので、良くも悪くもどうしようもないが、僕はそれでいいと思う。あまり、自分のことを直そうとか、矯めようとか思わない。向上したい、善くありたい、とは思うけど、それも自分のために。

 食事後すぐ別れ、母と街を散策、というより母御用達の布地専門店を目指して、その途中いい感じのお店があったら入る、を繰り返す。服、毛糸、ボタン、花器、食器、スパイス、ベーグル、靴や如雨露などなど、様々な専門店を巡り、ようやく布地専門店へ。誰かのための買い物をし、その後も店が有るたびに入っていた、僕たちには「もうそれくらいにしたら」とか「そろそろ帰らないと、明日疲れちゃうよ」などとつまらないことを言う人はいないのだ、見たいものを見て、歩けるだけ歩く。帰りに百貨店で食べたいものを買い、肩が千切れそうな思いで帰る。街を歩くのはたのしいし、その間も僕と母はしゃべり続けている。しゃべるという言葉の意味が瓦解していくほどに。
 歩きながら、しゃべりながら、何かを発散するわけでもかき混ぜるわけでもなく時間が経つのはおもしろい。確実に無駄ではないのだが、何かが経ち現れてくるまでに時間のかかる行いだと思う。目に見えないものがどんどん大きくなっていく。それがたのしくって、たのしいことが大事なのだ、僕も母も。そういうことだと思う。

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