リアルぼっちがマッチングアプリを使ってみた/08.リアルぼっちなりの終焉
前回の段階から色々と進展し、結果的に求愛を受けていたゲーム仲間と付き合うことになり、マッチングアプリの方とは関係性を終わらせることにした。
関係性を断る文章が中々思いつかなかったので、ChatGPTに聞いてベースの文章を作ってもらった。そこから私なりに文章を書き加え、修正した。
ゲーム仲間の方と付き合うことになったものの、中々むづかしいことが多い。自分本位な恋愛に対して、どう寄り添えるのか色々と試したが、どうもそのような恋愛に関して寄り添うことは不可能らしい。
そもそも私は恋愛に関して寄り添おうとできるタイプではない。それを無理矢理寄り添う形に持っていったのは悪手だったのかもしれない。
そもそも恋愛というのは互いが自立した上でそれでも二人でいる方が楽しいという場合に成立することらしい。
過去やいまの私は、付き合って欲しいという相手の言葉に拒否できないからという理由で付き合っている。それはほんとうに正しいのか?
恋愛というのは人の数だけ様々な恋愛があると思っているけれど、私の人と付き合う理由はあまりに消極的すぎる気がする。
私は恋愛感情がほとんどわからない。そんな人間が積極的な恋愛をすることなど可能なのだろうか。私は常に受け身で、付き合っている人と接していかなければいけないのだろうか。
そんな窒息するような恋愛で、私は自由になれるのだろうか。なれないだろうな、たぶん。自由というのは自分の心に沿って実際に動けるということだ。それができないのであるならば、私はその間一生自由にはなり得ないだろう。
自分の身体に問いかけてみる。何が不快で、何がわるいのか。
私はあまりにも自分の存在と身体をぞんざいに扱い過ぎたのだ。
これはある種の戒めなのかもしれない。自分を大切に扱えなかった罰。
だから自由はこの身体には存在しなかった。
自由になろう。羽を伸ばそう。落ち着けて、ゆっくりと自分の身体との対話を重ねよう。まずは自由になってみて、そうして私にとって何が大事で何が大切なのかを考えよう。
私の恋愛は一度終える。
私が恋愛感情を抱かない限り、二度と告白には応じないことを決める。
/09.身体のモノ化
薬局で薬を待っている間、50、60代のおじさんが若い女性に絡んでいる。ただただ不快な気持ちになる。
自分の身体を性的処理の道具にされた。性的消費物になることから逃れることは、恋愛経験のみならず、日常的にもむづかしい面がある。むづかしいというのは、常に女性側に拒否権はなく、常に男性優位になっているこの社会全体に対して言っている。
「男が喜ぶから」という名目でさせられる行為のどこがモノ化以外の何になり得るのだろう。
私の声も身体もすべて消費されるために使われる。
自分の身体を大切にするということはむづかしい。
自暴自棄になってはいけない、自分の身体に無関心でもいけないのだ。
私に自分の身体を大切にするということはできるのだろうか。
昔、男性恐怖症だったことを思い出す。あの感覚を思い出さなければいけないのかもしれない。卑しく、下品で、低劣、という感情。
だがその感情に完全に戻ることはあまりよくないことかもしれない。
愛するということにはスキンシップが関わってくる。そのスキンシップを否定することは、きっとよくない。
というより、愛のあるスキンシップは卑しく、下品で、低劣という印象ではないはずだ。
そういう印象を抱いている、ということ自体、その行為は愛のない、もしくは一方的なものである証なのかもしれない。
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