リアルぼっちがマッチングアプリを使ってみた/06.同じ屋根の下、ということ
一つ、常に疑問なのは、マッチングアプリのゴールはどこに在るのかということだ。
私/私たちは妥協をしながら将来生活を一にする相手を選んでいるのか、もしくは見えるだけの範囲いっぱいの中から最善手と言えるような相手を探しているのかのどちらなのだろう、ということである。
自分はどちらなのかと考えてみると、ある程度の妥協は必要だと思っているが、妥協は多い方がおそらく生活を一にし、関係性が濃くなるほど双方のズレというのが強調されていくような気がする。そうすると妥協はできる限り少ない方がいい。
その上で最善手と言えるような選択を行うこと。
こうして考えてみると、マッチングアプリか否かは関係があるのかまだ考えるのに知識が足りていないが、マッチングアプリにおいてこれからを共にする相手を探すことは自分自身と向き合うことなのだと気付く。
自分は何が許せて何が許せないのか、何が好きだと感じて何を嫌だと感じるのか。
そういった自分の感覚や感情の機微をどれだけうまく拾い上げれるかによって、マッチングアプリでいわゆる成功するか否かは決まってくるのではないかと感じた。
そう考えると私は自分の理解が実に浅はかだ。私は興味があることしか手に取らないし、興味のないものは手に取らない。興味があることも学術的な事柄かもしくはゲームに限られている。そのほかのことについて、私は自分自身をよく知らない。
3年間、同居していた相方がいた。
その相方と過ごす中で、私は何が嫌なのかをすごく思い知ったように思う。
私はADHDで部屋がごちゃごちゃとしているとすぐに物を失くす。一人暮らしである程度、自分の中で秩序を保っていた時は、無くし物は半年に1回あるかないかだったのに、同居をして散らかった部屋に住んでいた時は毎日にのように何かを無くしていた。
それを私がおっちょこちょいで、よく物を失くすと思われていたのが嫌だったし、相方は片付けができない人間なので、大して片付けが得意でもない私が片付けなければならないという半強制的な環境もすごく辛かった。
そして私はASDも持っている。この物はここにないとだめ。ここに在らなければいけない、という強いこだわりがある。それが変わっていく部屋、毎日毎日散らかり続ける部屋。
あまりに耐えられなくて一度吐き出したけれど、元々足の踏み場がなくても気にならない相方にとっては、私のストレスは理解不能だったのだと思う。
片付け以外にも色々なことが同居をするとなると相性みたいなものが重要になってくる気がする。
それは価値観が似ているか、どれくらい離れているのか、という問題に変換できると思う。
自分の閾値を知っておく、それをもし同居をするなら共有しておく。そういった作業がとても大切なのだと思う。
片付けの一件で私は部屋の片付け方を忘れてしまった。元相方は自分で決めた物を持つということをほとんどしてこない人だったから、親から与えられる物資を管理できないまま、私と同居をしていた。その荷物を私が精査して管理をするというのは、私にはあまりに重荷だった。自分の物の管理で手一杯なのに。
私は何が好きだったのか思い出す。
部屋を作るのが好きだった。自分なりに部屋に合う家具を選んで、部屋の雰囲気を作り、自分の部屋を一つの研究室のように作り上げたいと思っていた。
小川洋子『ブラフマンの埋葬』にある「たとえ明日急に目が見えなくなったとしても、困らないくらい」物が常に同じ位置、同じ向きになっている部屋にしたかった。
部屋に招待してよ、と言われたのが一つのモチベーションになっている。PCゲームを色々と紹介したらすごく気に入ってもらえて、やってみたいと言われて、部屋に行きたい、という流れであった。私もその人がおすすめしたゲームをやってるところをとても見たいので、最近は部屋の整理をがんばっている。
3年間、我慢して荷物として持ってきた物たちをほんとうにいま必要なのかどうなのかということを精査して、分別してほんとうに必要な物たちを残す作業を繰り返す。
それを繰り返した先にまた、私の好きだった物たちが現れてくるのだろうと思う。
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