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ブルーピリオドを読んだ(一方でこのnoteは感想とか考察を書いてるわけでは無い)(2021.09.24)

ブルーピリオドを読んだ。

「きっと読んだら他のことに手がつけられなくなっちゃうだろうな」「読了後は虚無になって苦しくなってしまうだろうな」とかいろいろ自分勝手な理由をつけて読まなかったんですけど、とうとう今日友人から借りて読みました。
作品の感想は、まだ一周しかしてないので自分で作品を噛みきれていない部分もあってうまく言語化できないでいる。ただ、11巻の感想とか考察について友達と話していたら、いつの間にか3時間以上過ぎていた。あと気づいたら泣いてた。そして、今やっぱり虚空を見つめています。ただ頭だけはぐるんぐるんに働いている。

鑑賞教育のオタクとずっと話していたんだけど、やっぱり私には無い考えや芸術との向き合い方がそこ(彼女)にはあって、悔しくも羨ましくも感じた。そこまで全力で悩むことができるのは少し羨ましくも感じるのだ。私だってやりたいことや夢に向かって努力をしてきたが、それらを否定したく無い一方で、実はそれらの時間全てがファッションでやって来たことなのではないか、と一瞬頭をよぎってしまうことがある。その度に苦しくなって逃げ出したくなる。けれども私はどこまでも現実主義で合理的で真面目で責任感があるので振り切ることができない。やっぱり私は芸術には向かない人間なのだと改めて感じて悔しくなる。そしていつか、悔しさを感じなくなってしまったら終わりだとも思っている。
そりゃそうなのよ。今まで私が描いて来た絵を幼少期から振り返ると、作品を完成させる延長上にはいつも「誰かに褒められる」という絶対的な評価が存在していたから。
うさぎはピンクで、木の幹は茶色で、空は青で、像は灰色で、みんなが分かる一般的にはこうだよね、という形で描いて色で塗れば褒められると知っていた。みんなが思う正解を描いてそして実際に評価されて来たのだ。図工って楽しいな、と漠然と感じていたのは、褒められるからだった。
だから、先生から絵を直されたり親から絵の描き直しを指摘されたりしても私は違和感を感じていなかった(今となっては違和感があるけれどそれは今だからこそ感じるものだと思う)。こんなのは表現ではない。
いつからか、褒められることに嫌悪感を抱くようになっていた。決して自分の絵が上手くないこともだんだんとわかって来た。私が描いてきた絵は私の作品ではないことも自己表現ではないこともだんだんと理解するようになった。ていうか自己表現について考え始めたことってあった?

中学生の時、トリのキャラクターを作って、至る所に「自分のマーク」にして描きまくっていた。ある時、母に「お姉ちゃんの描いてたキャラクターの真似でしょう」と何気なく言われた。確かにその通りだった。ただ、私は姉の影響を受けたとしても、真似はしていないと思っていた。けれどもなぜか、あれだけ描いてたトリのキャラクターは自然とその日から描かなくなっていた。思いがけず言われた一言が、あの朝の時間帯の風景と一緒に瞼の裏から離れない。

結局私の表現は誰かの受け売りでしか無くなっていたのだ。
あれだけ時間と金を精神を注いだピアノだって結局はコンクールのためのピアノであって、表現ではないのだ。
私は私のために何かをしたことが無かったのだ…。

なんだか悩ましくなってきて論点からズレ始め、ただのオナニー文章になりつつあるので一旦ここで切る。

芸術鑑賞のオタクの友人は考察力が人一倍あって、本当にオタク向きの人間だと思う。一コマ一台詞から読み取り感じとる情報量がエグくて毎回びっくりする。一方で自分の意見や知識をひけらかすような、よくある嫌味を全く感じないのが彼女の凄いところだ。だからこそ何時間でも話してしまうんだけども、私はこんな人が身近に2人もいるこの環境に改めてありがたいなあとしみじみ感じる。

芸術鑑賞のオタクの友人は、芸術は薬にも毒にもなると言っていた。今までの私の人生を振り返って薬になったことあったか…?と考えてしまったけれど、薬にならなかった事もないと思うので、この点に関しても今後考えていこうかなと思う。

それより何より卒業制作はよまとめんかい、という現実に帰ってくる。はよせんかい…。

話は少しずれるけど、最近は「親と子」についていろんな方面から考えることが多くなった。教育、反出生主義、育児、などなど…。考えれば考えるほどめんどくさくなってきて「あ〜、子供つくりたくね〜」と考えを放棄してしまうぜ。

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