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自分を信じることば

小学生のとき、太った子に暴言を吐いて、それをクラス全員の前で謝らされているクラスメイトがいた。それを見て、胸が苦しくなったことを覚えている。自分も当時、口に出さなかっただけで、その暴言と同じようなことを思っていたからだ。今でも、人が謝っているのを見ると、緊張する。同じ場面に自分が立ったときに、「さあ、おまえなら、どんな振る舞いで何をどう謝る?」と、突きつけられている気がする。

嘘をついた人が謝罪するのを見るとき、他人に宛てた言葉よりも、まずは「私はなぜ嘘をついたか」「なぜ私は謝ろうと思ったか」を自分に向けて語ってほしいと願うような気持ちになる。「この人はなぜ、誰に対して、何を思って謝っているのか」が見えなくて、形だけ謝らされてるのを見ると、つらくなって目を背けたくなる。自分が自分として生きていく道を歩めるはずの岐路で、さらなる嘘で自分の気持ちを覆い隠し、心の底へ押し込めているように見えてしまうからだ。

この前担当した『読みたいことを、書けばいい。』という本の最初の仮タイトルは、「信じられる人のことば」だった。webで飛び交う言葉を見ていて、そして自分自身の人生を振り返って、自分を信じられなくなった人の言葉は、他人に届かなくなると感じていたことからこの本は始まった。

しかし、「信じられる人のことば」は他人が誰かを評する視点だった。そこに明確な基準などないし、もし「信じられる基準」を設けるような本を作ったら、自分は、その基準に当てはまらない人の言葉を排除する首謀者になって、著者をその共犯者にしていたかもしれない。

結果的に着地した『読みたいことを、書けばいい。』というタイトルは、自分に向けた宣言だ。その本の中に著者の田中泰延さんは「思考の過程を披露する」という一節を書いてきた。これは、きっと謝罪の時にも当てはまる。自分自身が間違ったことをしたと思ったら、間違った初めのところから順を追って省みた過程を述べるしかない。それはきっと周りの人々がなぜ落胆したか、なぜ傷ついたかを想像する機会になるだろうし、自分が「私はなぜ謝りたいと思ったのか」を知る過程になる。また、そこから出発できる。

「今、謝らなければならない」と思った自分に嘘をつかない。嘘を嘘で上塗りしない。これは完全に、これからの自分に向けた戒めだ。

#読みたいことを書けばいい  


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