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「呼び捨て」と「敬称略」 : 無料記事

「敬称略の敬意」があまり通じない。

俺が、

「aikoが"あたしはあなたにはなれない"と書いた曲に『相思相愛』とつけたのは、あなたも同じように思っていてくれたらという願いである」

などと書いたときに、

「そこはaiko"さん"と書かないと失礼ではないのか」

と言われる。あなたはaikoかと言いたい。

たとえば、歴史上の人物に敬称はつけない。日本史の教科書に「織田信長さんが安土城を築城し」などと書いてあれば違和感があるし、「ソクラテス様の口述をプラやんが筆記し」などと書いてあれば「知り合いか」と言いたくなる。プラやんは愛称だけど。

歴史上の人物に敬称をつけなくてもいいと思う最もわかりやすい理由は「決して本人に届かないから」だろう。織田信長に家臣が直接「織田信長」と言ったり書いたりすれば斬られるかもしれないが、わたしたちは斬られない。安心して敬称を外す。織田信長はもうこの世にいないから。

この「本人が見る」という点で、「本人が見たり、いつか一緒に仕事したりする可能性もあるのだから敬称をつけるべきだ」と言われることもある。言ってることはわかるのだが、それは「呼び捨て」と「敬称略」を混同していると思う。「呼び捨て」とは、本人に向けた呼称において敬称を落とすことである。俺がaikoに向けて直接リプなりファンレターを書くなら、もちろん「aikoさん」とか「aiko様」などと書く。

わたしが不特定多数に向けた文章において同時代に生きる人物の敬称を落とすのは、強い敵意を持って糾弾したり告発するような「敬意がない」場合と、最大級の敬意を込める場合の両極端に片寄る。俺にとってaikoは同時代に生きる歴史上の人物である。だから敬意を持って敬称をつけない。

本人が読む可能性があるから「aikoさん」と書くのは、まさにその「ワンチャン本人に読まれたらいいな」という希望的可能性を中途半端に含んでいる点がよこしまだと思う。aikoは自分にとって身近な存在だと思うことがおこがましい。「aikoさん」と書く方が俺にとっては馴れ馴れしくて失礼だ。本当に本人に読まれたいなら、本人に書けばいいだろう。ただ一人に向けた文章と不特定多数に向けた文章は全く別の文章である。

日本語学者に言わせれば学術的・歴史的に明確な反論があるかもしれない。しかし、俺にとって「aiko」と「aikoさん」は全く別の存在だ。「aikoさん」と書けという反論は、aiko本人以外からは受け付けない。

「最大級の敬意を込めた敬称略」があることを、その意志を、あまり知られていないように思う。

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