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「多様性」っていう言葉、悪用されてませんか?

今回書きたいことはタイトルの通りです。最近、「多様性」という言葉が巷で多く口にされるようになったと思います。国籍、人種、年齢など、お互いの人間としての個性を認め合うということで、「多様性」は使われています。非常に良い流れだと思います。

しかし、私はその使われ方に強く疑問を覚えます。私はその「多様性」という言葉が安易に使われすぎて、この言葉が変な方向に利用されてしまっていると思うのです。

変な方向に使われているというのは、具体的には

自分の悪い所も個性として認めてね!

といった使われ方です。個性を尊重する風潮が、「多様性」ということばの使われ方を不穏なものにしていると感じます。

例えば、こんな主張。

私は時間を守れないけど、それも自分の特徴なの!

こんな主張をしている人を見かけるのです。これは果たして「個性」や「多様性」といった文脈で語られて良いものなのでしょうか。

「多様性」の尊重の背景には、「価値観の多様化」があると思います。「私の価値観ではこれは良いことだから、他の人の価値観で良し悪しを決めないで欲しい。」という思考が、多様性の基盤にあると私は解釈しています。これは私は正しいと思います。「あくまで自分の価値観で物事に向き合っていく。そこに他人の価値観を押しつけられる筋合いはない。」その考えは正しいのかなと思います。例えば、「自分のやりたいことをやる」という個性を主張する時、それに対して相手に否定されるということはあってはならないでしょう。

しかし、先程の「時間を守る」ということはどうでしょうか。「それも個性」と主張することは、どの価値観に照らし合わせても妥当と言えるのでしょうか。私はそうは思いません。「時間を守らない」ということは明らかにその人のエゴであり、価値観どうこうの問題ではないと思うからです。

ここまでは、あくまで例の話です。この例示によって私が主張したいことは、

「多様性」を悪用して、自分の悪い所をそのままにすることはやめましょう

ということです。人種・国籍などは外生的なものであり、それを変化させることはできないし、他人にどうこう言われる筋合いはないでしょう。しかし、どう見ても「自分が悪い所」は可変である以上、野放しにしておくのは良くないのはないのでしょうか。

とはいえ、この私の主張の適応範囲は非常に狭いものだと言えると思います。というのも、「どの価値観から見ても明らかに悪い」という個性は限りなく0に近いからです。先程の例でも、私の価値観による判断と考えることが可能なのです。

しかし、最近の風潮として、「自分の悪い所も自分だ」と言われすぎだと考えています。「自分の悪い所を個性として自認すること」と「自分の悪い所を認識しつつ、それを多様性の論理を使って野放しにしておくこと」は似て非なることでしょう。「多様性」という考えが広まり、それまでの多くの課題が解決されている一方、後者のような多様性の使い方に逃げるのなら、それは「悪用」以外の何者でもないと考えます。

多様性の使い方を考え、その上で「多様性」という概念を使って自分を捉え直すことが必要だと感じた最近でした。


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